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この項目では、何らかの目印やシンボルとして掲示されるものについて説明しています。その他の用法については「旗 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
日本の国旗ネパールの国旗

旗(はた)は、などの薄い素材竿などの先端に付けて空中に掲げたものである。万国旗のように綱に付ける場合もある。
概要

旗は、何らかの目印やシンボルとして掲示されるもので、視認性や他と識別されるために意匠が凝らされた布である。風雨によってほつれたりちぎれたりしないよう、多くは補強が施されており、特に綱や竿に結び付ける部分は念入りに補強されている。旗はもっぱら目に付く高いところに掲揚される。

その用途によって様々な機能が付与された旗も多い。国家コミュニティなどグループの象徴(シンボル)としての旗(国旗校旗など)や、装飾用の旗は美しい色合いを使い、図案や色に意味をもたせるなどの意匠が施されている。通信用や識別用の旗は、他との識別性を重視して、風で多少歪んでいても、見間違えないような共通化されたデザインが施されている。

シンボルとしての意味を持つ旗は、様々な儀式で様々な扱い方がなされる。例えば優勝旗は団体競技の大会で優勝したチームに贈られることがあり一種の記念品として扱われる。また、同じ旗でも扱い方によって込められた意味が違う。例えば半旗は弔意という意思を表明する意味を持ち、国家の象徴である国旗を同列に繋げた万国旗は、世界平和や国際協力を願う意味を持つ。
歴史

国旗の年表」も参照。

旗には布が用いられることが多いが、古くは藁や木や草の繊維あるいは動物の皮が用いられていた[1]イラン神話は旗の起源を槍先に皮を付けた「カーヴェの旗」とする[1]

中国戦国時代において、「旗(き)」の字は、「軍将の立てる旗」を指し(後述書)、現代日本が用いるような総称の意味ではない。紀元前の中国軍制における旌旗(せいき)では、使者等に賜る旗を「節旄(せつぼう、布ではなく複数の羽を垂らしたもの)」、軍の士気を鼓舞するための旗を「旌(せい、これも布ではなく羽を垂らしたもの)」、軍将の旗としての「旗(き)」、司令官の旗を「旄旗(ぼうき)」、天子の旗を「太常(たいじょう)」とし、それぞれ竿の頂にはの頭をあしらった[2]

三国志』魏書(魏志倭人伝)には、邪馬台国の使者であり大夫難升米に対し、正始6年(245年)、魏の3代皇帝(斉王曹芳が黄幢(黄色い軍旗)を下賜するように帯方郡へ命じているが実行されなかった(「魏志倭人伝」参照)。その2年後である正始8年(247年)には、邪馬台国と狗奴国の仲介役として魏から張政が派遣され、この時は黄幢を難升米に対して渡している。また研究者によっては、東夷伝馬韓条にある「祭祀に際し、大木を立てる」という記述から、神木信仰と同時に、朝鮮半島では集落祭祀において多くの旗を立てる風習があり(現在でも農村では、農楽において、神木に見立てた農旗に神を降ろす)、そこに神を降ろすと信じられているため、「旗に神が宿る」とする信仰は「神木の見立て」で、これが日本に伝播したものとする[3]

文献資料ではなく、古墳時代の出土遺物(考古資料)から確認される例としては、埴輪から後部に旗竿を差し込むソケットが表現されているものがあり、一例として、埼玉県行田市酒巻古墳群・14号墳から6世紀後半のものが出土している(行田市ホームページ「指定文化財等」の一覧で確認可)。この時期には東国でも旗指物が馬と共に伝播していることがわかる[4]。線刻壁画の例としては、大阪府柏原市高井田横穴墓群(6世紀前半から7世紀)の2-23号壁画および2-28号壁画において、馬上の旗が確認できる(柏原市ホームページにて確認可)。

日本書紀』や『常陸国風土記』には白旗の記述があり(「白旗#戦意無き白旗」を参照)、また『続日本紀』には、大宝元年(701年)条、元日朝賀の儀礼において、カラス四神の7つ旗を立てた記録が残る。和歌集である『万葉集』には、旗に見立てた表現が見られ、巻1・15番には「豊旗雲」、巻2・148番には「青旗」があり、いずれも旗から連想された表現となっている。

歴史資料として少し時代が下がる9世紀成立の『日本霊異記』には、雄略天皇の時代の人物である少子部??(少子部自体は『紀』にも記録が残る)の逸話(天皇がお呼びぞと叫んで雷神を捕獲)に、「馬に乗り、赤いカズラを額につけ、鉾に赤旗をつけた」記述が残り、『紀』の壬申の乱7世紀末の内乱)の記録においても、大海人皇子軍は味方の識別のために、赤い布を身につけ、赤い幟をはためかせたと記録に残ることから、赤旗が皇軍の象徴として表現されていることがわかる。のちの治承・寿永の乱12世紀末)において、安徳天皇を擁立した平家軍も赤旗を使用し、13世紀初めの承久の乱以降に使用される錦の御旗=官軍旗も赤旗である(「錦の御旗」の画像参照)。

日本では大嘗祭の祓いの幡(旗)について『延喜式』(10世紀成立)が制にならって「虎像の纛(とう)の幡1旒(りゅう)」や「鷹像の隊の幡4旒」のように細かく指定しているが、これは小旗とトーテムの動物の旗が一組となっていることに意義があるとされる[1]

上泉信綱伝の『訓閲集』(大江家兵法書を戦国風に改めた兵書)巻6「士鑑・軍役」内の「陣言」の説明では、「征夷将軍は白旗、鎮守将軍は赤旗を添えらるなり」と記述され、巻8「甲冑・軍器」内の「旛旗の図」の説明では、「源氏は白、平家は紅に白、藤氏は水色に焦色、橘氏は黄に水色」と記述される。また巻2「備え與」内の「旗を立てる法」の説明では、鉄砲・弓・馬武者・長柄・旗の順を守るように記し、敵に多く旗を見せようとする時は横に立て、少なく見せようとする時は縦に立てるもの、旗を立てる間隔は2など、細かく戦場における旗に関する作法が記述される[5]

近世期では、加藤嘉明賤ヶ岳の七本槍の1人)が書き残した『加藤左馬殿百物語』の記述として、便所天井を高くする理由を、籠城戦になった際、背中に旗指物をつけたまま入りこむため(「城中の雪隠は指物で入ってもかまわぬほどに、上を高くするものなり」)とする[6][7]

槍の先に布を結び付けて旗印とすることは全世界に広くみられる風習である[1]。前述のように戦国時代の中国では軍旗の竿の頂は「竜頭」であり、19世紀初頭の第一帝政期のフランスではナポレオン・ボナパルトがシンボルを「翼を広げた」と定めたため、軍旗の頂にもブロンズ製の鷲(旗飾り)をつけ、軍人に対し、忠誠を誓わせる儀式を行った[8]

キリスト教圏では、剣や旗の祝別の典礼的定式が行われたが、騎士道イデオロギー11世紀末時点では形成されておらず(後述書 p.13)、これらの儀礼も騎士全体を対象とせず、一部の特別な教会守護者を相手としていた[9]

大航海時代15世紀半ば - 17世紀半ば)に入り、ヨーロッパ人が未踏地に上陸して開拓後、国旗を立てるようになり、植民地の拡大にともないアメリカ合衆国ではその後州旗となる(英語版の「国旗の歴史」も参照。独立国の増加にともない国旗も増えた)。18世紀後半以降、近代期では登山による未踏峰への挑戦が活発となり(「登山」の歴史参照)、「到達旗」が立てられるようになる[10]1911年にはノルウェーの探検隊が南極点に到達し、旗を立てる(「アムンセンの南極点遠征」の頁の写真参照)。21世紀に入り、到達旗は海底に立てられる例も出ており、2007年8月2日にはロシア北極点真下の海底に国旗を立てた(フランス通信社が8月3日に報じる)。


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