旗本
[Wikipedia|▼Menu]

旗本(はたもと)とは、元来は戦場で主将の旗下にあって主将を護衛する武士団のことを指す。一般的には江戸時代徳川将軍家直属の家臣のうち石高が1万未満で御目見以上の家格だった武士の身分を指す[1]。主人は殿様(大名と同様)、正妻は奥様と呼ばれた。

これに対し、御目見以下の家臣は御家人という[1]
戦国時代の旗本

戦国時代には、主君の指揮下に属する直属部隊の家臣を指す場合もある。おもに譜代の家臣で編成され、戦闘時には主君の本陣備を構成した。

戦国大名家における幕下層(国人領主等)は軍事的に大名家に従属していたものの独立的軍団を構成しており、領国経営においても独立性が強く、離反も珍しくなかった。これに対し、直属の家臣であった旗本は主君にとって信頼できる存在で、戦国大名家の政治権力においても中心的な役割を果たしたと考えられる。例えば、上杉謙信の家臣の千坂景親のように戦闘時に常に本陣周辺に配置されるため、華々しい戦果を残すことはあまりないが、大名家の家臣団の中枢を担ったのは旗本家臣層であった。
江戸幕府の旗本
定義

江戸時代における旗本とは将軍の直臣で禄高1万石未満のうち、将軍への謁見が許される「御目見」以上の家格の者を指す。一方「御目見」が許されない家格の直臣は御家人という。旗本と御家人を合わせて直参(じきさん)と総称した[2][1]

江戸時代初期には「旗本」の語は幕臣一般の総称として使われていたので、旗本と御家人の区別は明確ではなかったが、17世紀後半以降に「御目見」以上か以下で両者を明確に区分する風潮が定着した[1]
数と構成

旗本の数には変遷があるが、寛政年間には5300人ほどであった。俗に「旗本八万騎」などと呼ばれたのは幕府の軍役規定に基づき旗本たちが召し抱えることになっていた陪臣6万7500人を含めたものだと考えられる[2]

旗本の出自は三河以来の譜代の家臣を中心として、戦国期の徳川家の膨張により支配下に組み込まれた駿河国甲斐国信濃国などの武士団、大名や旗本の分家、名家の子孫、御家人などから登用された者など様々であった[2]

また特殊な旗本として旗本でありながら参勤交代を行った交代寄合[3]、旗本の中でも家柄がいい家を集めて儀式典礼や朝幕関係を司らせた高家があった[4]。交代寄合と高家は一般旗本より家格が高かった。
旗本の役職「江戸幕府#旗本役」も参照

旗本の役職は軍事を司る番方と行政を司る役方に分かれており、はじめは番方の方が重視されたが、幕府行政の複雑化に伴い役方が重視されるようになった[2]。番方は江戸城や二条城、大阪城の警衛、将軍への随従等に当たった役職の総称で、大番書院番小姓組新番小十人組の五番方があった[2]。役方は町奉行勘定奉行など行政・司法・財政などに関する諸役である[2]。こうした役職に就くと足高や役料が支給される場合がある[2]。また役職に付随する形で侍従諸大夫布衣といった官位や服制が付与された[5]

家禄3000石以上および布衣以上の役職にあった無役の旗本は寄合、それ以下の無役の旗本は小普請に列した[2]。寄合と小普請は役職に付かない代償として禄高に応じた小普請金を幕府に上納させられた[2](100石までは1両、それ以上は100石増すごとに1両2分加算[6])。
俸禄

旗本の俸禄は200石以上であることが多く、それ以下だと御家人か一代抱えであることが多いが、例外もある[7]

旗本の俸禄には知行取と蔵米取の別があった。知行取とは、百姓農民)が暮らしている土地を領地として与えられ、領地内で暮らす百姓から年貢として生産物の一部を徴収する領主になることである。知行3000石以上の旗本は領地に陣屋を設置して直接に領地支配にあたった。 一方3000石以下の旗本は領地支配は幕府の代官に委ねて年貢だけ徴収した[1]

一方蔵米取とは幕府が直轄領の百姓から徴収した年貢である蔵米の内から決まった額の米を支給される者である[1]。蔵米取には切米取、現米取、扶持米取の3種が存在するが、もっとも多かったのが俵高で表示される切米取である。1俵は3斗5升の割合で計算されるので切米100俵であれば35石の米が幕府の米蔵から支給される[1]

御家人はほとんどが蔵米取だが、旗本は知行取が多く、18世紀後半の知行取の旗本は2908人で都合275万石余、蔵米取の旗本は2030人で都合45万俵余となっている[1]。一方領地を直接支配した3000石以上の旗本となると全旗本5000家中250家程度にとどまる[1]

なお100石の知行所の広さとは土地の状況によっても異なるが、上田一反三石として、これを五合摺として一石五斗なので、おおよそ七前後の田んぼである。付随した畑や山林も含めると十町の2倍から3倍ぐらいの土地が100石になると思われる。土地持百姓を一軒一町と計算すれば六、七軒の土地持百姓がいることになるが、実際には数町歩の百姓もいれば小作百姓もいるので、だいだい100石の土地には十軒前後の百姓が生活していると考えられる[8]
軍役や暮らし向き

旗本は原則として江戸在住が義務づけられていた[1]。またすべての旗本は幕府の軍役規定により一定の人馬と武器を負担しなければならなかった[2]
100石級

100石級は諸藩では中士と呼ばれることが多いが、江戸幕府では100石級は「御目見」以下の御家人であることが多く、「御目見」以上の旗本であることは稀である。小十人組は百俵でも「御目見」以上であるので旗本というのであろうが、小十人組は勤めなので十人扶持がもらえる。なので小十人組は非役の百石・百俵よりはだいぶマシだったが、それでも「百俵六人の泣き暮し」と陰口されるほど倹約しても悲惨な生活を送った[9]

交代寄合に120石の岩松家がある。同家は新田家の支流にあたり(そのため明治以降に新田に改姓して華族男爵家に列す)、家格だけは一般旗本より上位だったが、家禄は120石と旗本の中でも最低水準に近く、極貧生活を送った。幕末期の当主岩松俊純(維新後の新田俊純男爵)は糊口を凌ぐためにネズミ除けの猫の絵を描くなどしていたという[10]

百俵御家人は組屋敷(御家人は組頭の下に一か所に固まって「組屋敷」と呼ばれる屋敷町を作っていた)だが、旗本であれば百石でも開き門(両扉のある門)の構えである。ただし門番はいない。屋敷は旗本でも御家人でもない御目見以下の抱筋の130俵か230俵の町奉行配下与力が二百、三百坪ぐらいなので御目見の小十人組だともう少し広い屋敷を拝領したらしい[11]

100石取りは軍役により槍1本を持ち、登城には槍持と中間を連れて行かねばならず、家庭内にも下女や下男を使うことになっているのだが、収支の均衡から考えてそんな人数を使うのは不可能である。たいていは中間1人と下女1人ぐらいである[9]。ちなみに当時の使用人の給料は現代では考えられないほど圧倒的に低いので、現代で使用人を使う感覚と同じに考えることはできない。現代では使用人が一人でもいれば裕福な家と見なされようが、当時は100俵級の貧乏武士も一人ぐらい使用人を使ったのである[12]
200石級

例外もあるが、基本的に200石取り以上が旗本であることが多い。200石級の旗本であれば軍役規定により侍1人、草履取り1人、槍持1人、馬の口取1人、小荷駄1人の計5人の使用人と主人用の馬1頭を用意し、事があればそれを引き連れて戦場に参じなければならない。が、実際には200石程度の旗本では馬を持つのは困難であり、5人の使用人も用意できる者は少なかった[13]

拝領する屋敷は600坪位で門は片番所付の長屋門である[13]

200石級旗本の生活は極めて苦しく、借金生活を送ることが多い[14]。槍持と草履取は登城に欠かせないことから切り詰めることはできないが、若党中間は経済状況に応じてよく減らされたため、200石の旗本の屋敷の門は門番無しのことが多く、徳利門番(潜りの脇門に緒をつけた徳利を釣瓶式に仕掛けて置く)の風習も生まれた[15]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:109 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef