この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "旗本先手役"
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年9月)
旗本先手役(はたもとせんてやく)は徳川家康の時代にあった徳川家の軍制。旗本を自身の護衛のみではなく、積極的に戦闘に投入することを目的とした城下に常駐する部隊である。旗本一手役(はたもといってやく)とも言う。 旗本先手役(以下、先手役)は家康が三河を統一した1566年(永禄9年)頃に行なわれた徳川家の軍制改正時に設立している。この改正により三河の侍衆は東三河衆(旗頭:酒井忠次)と、西三河衆(旗頭:石川家成、その後石川数正に交代)、そして家康直轄の旗本の三備[1][出典無効]に再編された。 先手役は上記の旗本内において、総大将家康の馬廻とは別に家康直属の機動部隊として新たに編制された。これ以前、家康は三河一向一揆で帰順した門徒家臣や門徒非家臣を旗本に加えることで、旗本の強化と自身の権力強化を行なっている。これにより1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い時に200騎余とされた直臣団は一向一揆鎮圧後には600騎以上になったと推定される。先手役はこれら拡充した旗本があって初めて成り立ったものであった。 先手役は旗本部隊の先手として前線で戦闘を行うだけでなく、即応部隊としての側面も有する。よって旗本先手役に属する侍衆は家康の居城に常駐し、不意の出動に備えていた。家康の居城が移るに従い、彼らも岡崎城から浜松城、駿府城へとその居を移している。浜松城に常駐していた頃は東・西三河衆に対して先手役は「浜松衆」と呼ばれていた。 これら先手役の維持費は徳川家からの持ち出しとされ、徳川家による領国支配の深化や織田信長の経済支援によって賄われていたと考えられている。 当時の家康直臣団は小領主が主体であり、三河の国衆や松平衆と異なり、単独で備等を編成できる者は少なかった。その為、旗本先手役は将に与力を付属させる寄騎同心制によって編制されている。 永祿9年の軍制改正時に本多忠勝・本多広孝・鳥居元忠等が先手役の将となり、忠勝には55騎の寄騎が付属されている。また1567年(永禄10年)には榊原康政が先手役に加わり与力4名を与えられ、1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは先手役の将になっている。他にも大須賀康高・植村家存[2][出典無効]・植村正勝[3][出典無効]・小栗吉忠[4][出典無効]・大久保忠世[5][出典無効]・柴田康忠等が先手役の将となっている。彼らの多くは幼少から家康に仕えていた側近衆であった。家康は子飼いの彼らを先手役の将に抜擢することで国衆や他の松平一族を圧倒する力を手に入れることになる。 先手役は家康と共に遠江の侵攻戦から、姉川の戦いや武田氏との戦い・天正壬午の乱で活躍している。この間、以前より与力でなく同心衆だけを付属され田原城を与えられていた本多広孝を始め、1575年(天正3年)に大久保忠世が二俣城を、1582年(天正10年)には大須賀康高が横須賀城を与えられ城持衆になっている。また1576年(天正4年)には本多重次に100騎が付属され先手役に加わっている。 1582年(天正10年)の甲州征伐により駿河を、その直後の本能寺の変によって勃発した天正壬午の乱により甲斐・信濃を新たに領国に加えた事は、当然ながら徳川家の軍制に大きな影響を与えた。新たに併呑した領国支配の為、先手役の鳥居元忠が甲斐の谷村城を、柴田康忠が信濃の田口城を与えられて城持衆となる。
創設過程
前期
後期
Size:13 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef