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旗振り通信(はたふりつうしん)は、江戸時代中期から明治期にかけての日本で、米相場など[† 1]の情報を伝えるために活用されていた、旗などを用いた通信システム(大型手旗信号の一種)である。「気色見」(けしきみ)、「米相場早移」(こめそうばはやうつし)、「遠見」(とおみ)ともいう[1]。 旗振り通信は江戸時代中期、全国の米価の基準であった大坂の米相場をいち早く他の地域に伝達するため、さらに地方の相場を大坂に伝えるために考案された[2]。起源は紀伊國屋文左衛門が江戸で米相場を伝達するために色のついた旗を用いたことにあるといわれており[3]、旗振り通信が初めて登場した文献は1743年(寛保3年)の戯曲『大門口鎧襲』とされている[4]。
歴史
1865年(慶応元年9月)、イギリス・フランス・オランダの軍艦が兵庫沖に現れた際に旗振り通信によって速報がされたのをきっかけに禁止令は解かれた[6]。以降旗振り通信は盛んに行われ、明治には政府公認の仕事となり、相場師、めがね屋などと呼ばれた[7]。
1893年(明治26年)3月に大阪に電話が開通すると次第に電話にとって代わられ[† 2]、1918年(大正7年)に完全に廃れた[8]。 昼間は旗、夜間は松明(松明を用いる方法を「火振り」という)や提灯(都市近郊)が用いられた[9]。旗の色は基本的に、背後に障害物がある場合は白、ない場合は黒であった[10]。伊勢・伊賀では赤い旗も用いられていた[10]。旗の視認には望遠鏡や双眼鏡が用いられた[11]。旗の大きさは晴天時は横60cm×縦105cmまたは横100cm×縦150cm(小旗)、曇天時は横90cm×縦170cmまたは横120cm×縦200cmのもの(大旗)が用いられた[10]。大旗については180cm×180cmのものを用いたという証言もある[12]。旗の竿は長さ240cmないし300cmほどであった[13]。 旗振りを行う場所(旗振り場)の間隔は、明治時代には長くて3里半(14km)から5里半(22km)であった[14]。天候が悪く見通しの低い時には低地に臨時の旗振り場が設けられた[15][† 3]。旗振り場には平地では櫓、山では丸太や石で造った旗振り台や小屋が設けられた[10]。かつて旗振り場であった場所には、旗を差し込むための穴が開いた岩や通信方向の目印をつけた岩が残されていることもある[13]。
通信の方法