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中華人民共和国 遼寧省 旅順口区
黄金山より望む旅順軍港の全景(2011年5月)黄金山より望む旅順軍港の全景(2011年5月)
大連市中の旅順口区の位置大連市中の旅順口区の位置
中心座標 .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度48分45秒 東経121度14分30秒 / 北緯38.81250度 東経121.24167度 / 38.81250; 121.24167
簡体字旅?口
繁体字旅順口
.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田研中丸ゴシック2004絵文字","和田研中丸ゴシック2004ARIB","和田研中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}?音L?shunk?u
カタカナ転写リューシュンコウ
国家 中華人民共和国
省遼寧
副省級市大連市
行政級別市轄区
政府所在地新城大街1号
建置1955年
面積
総面積506.80 km²
人口
総人口(2003)21 万人
経済
電話番号0411
郵便番号116041
行政区画代碼210212
公式ウェブサイト: ⇒http://www.dllsk.gov.cn/
旅順口区(りょじゅんこうく、リューシュンコウく)は、中華人民共和国遼寧省大連市に位置する市轄区。遼東半島の最西部(突端部)にあり、天然の良港として知られ、旅順軍港を有する軍港都市として栄えた。区人民政府の所在地は新城大街1号にある。大連市内からは45kmの距離で、国家級風景名勝区[1]、国家級自然保護区に指定されている。陸地面積506.8平方km、海岸線の長さは169.7km。沿海では真珠の養殖が盛んである。
旅順口区は長らく閉鎖都市であったが、旅順口区政府は2009年3月20日付の招待会で、旅順口区を外国人にも開放し、軍事禁区以外は外国人も訪問できるようになったと発表した[2]。しかし、この発表は大連市や国家レベルの承認も得たものでない旨、日本領事館大連事務所から注意喚起されている[3]。市および国家からの正式文書を得た段階で、下の「現状」にある訪問制限の記述も変更される。
歴史清代海防砲台旅順口区の真珠養殖海辺に近い旅順の街並旅順の関東軍司令部跡(現、関東軍旧蹟博物館)
近代に入るまで、目立った歴史は記されていない。1856年から1860年まで戦われたアロー戦争時、イギリス海軍のアーサー中尉(William C. Arthur)指揮するフリゲートが寄港したことで、ポート・アーサー(英語: Port Arthur, ロシア語: Порт-Артур ポルト=アルトゥル)の名称が欧米に知られるようになった。
もともとは人家もまばらな、寂しい漁村であったが、1878年に清の北洋艦隊の根拠地となったことから、町が形成された。日清戦争中の1895年には、日本陸軍に占領された。この際、欧米記者によって、日本軍が行ったともいわれる旅順虐殺事件が報道され、問題となったが、日本政府は事実無根であるとした。下関条約により、旅順を含む遼東半島は日本に割譲されることに決まったが、三国干渉によって中止となる。日清戦争後に列強各国が弱体化した清に軍事的圧力をかけ租借地を切り取る動きが盛んになる中、ロシアも1897年12月に旅順・大連に上陸して占領し、翌1898年に旅順・大連租借に関する露清条約を締結して旅順口はロシア帝国の租借地となり、ロシア海軍の太平洋艦隊の根拠地として、軍港・要塞として開発され、日露戦争当時は人口1万人を超えるほどの街に発展していた。
日露戦争においては、日本軍による旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦および旅順攻囲戦が起こった。市郊外の丘陵である203高地などでの激戦の末、最終的に日本軍が莫大な損害の後に勝利したことにより、1905年1月に旅順を占領した。旅順北郊外の水師営で停戦条約に調印し、乃木希典将軍とアナトーリイ・ステッセリ将軍が会見している。日本は同年のポーツマス条約において、清に対する租借権を正式にロシアから引き継いだ。はじめ、旅順には関東都督府が置かれ、その後、大連へ関東州の諸施設が移るに従い、旅順は日本の軍事的拠点となり日本海軍により旅順要港部がおかれ、龍河・旅順駅・白玉山一帯をはさんで、東の旧市街と西の新市街は大いに発展した。
第二次世界大戦末期の1945年、ソ連軍が侵攻し、旅順を占領した後は、ソ連海軍の太平洋艦隊の軍港として中華民国に認めさせた。1950年に隣接する大連・金州と合併、旅大市となり、1955年に中華人民共和国に返還される。1981年に現在の市名である大連に改称され、大連市旅順口区となった。 現在、旅順口区の面積は506平方キロ、人口は21万人である。大連は、中国の改革開放における市場経済導入の成果を代表する国際都市である。しかし、旅順口区には中国海軍基地が存在し、軍事機密地域に指定されているため、中心市街区や軍港の周辺、老鉄山などへの外国人の立ち入りが規制されていたが、2009年6月より軍港周辺、軍港公園など数箇所を除いて外国人に開放された。一方、203高地や水師営会見所(旅順攻囲戦のあと停戦協定が締結され、ロシア軍のステッセル司令官と日本軍の乃木希典大将が会見した場所)などは観光地として開放され、多くの観光客が訪問している。
現状