旅順虐殺事件
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旅順虐殺事件(りょじゅんぎゃくさつじけん、リュイシュンぎゃくさつじけん)は、1894年明治27年)11月日清戦争旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍清国軍敗残兵掃討中に発生した事件で、ピューリツァーのニューヨークワールド紙特派員ジェイムズ・クリールマンなどがセンセーショナルに報道した[1][2]遼東半島
概要

1894年明治27年)より朝鮮半島の覇権をめぐり日清戦争が勃発したが、軍備の優位など諸要因によって日本軍が戦況を有利に進めた。黄海の海戦勝利の後、10月に入るといよいよ清朝の国内に攻め入り、当初は攻略に五十以上の軍艦と十数万以上の軍人が必要だと言われていた旅順を11月に攻略しようとした[3]。当時遼東半島の先端に位置する旅順は、対岸の威海衛とならんで 北洋海軍李鴻章の実質私兵)の基地となっており、清朝の海上輸送ににらみをきかすためには是非とも落とさねばならない要衝であった。

旅順攻略にあたったのは、大山巌率いる第二軍であった。11月18日、土城子という旅順近郊での戦闘では、秋山好古少佐の騎兵第一大隊が清軍と遭遇し、死者11名・負傷者37名を出すなど苦戦を強いられた。しかし11月21日の攻撃では旅順の大部分を占拠するに至った[4]。日本は当初から諸外国との不平等条約改正を悲願として国力強化に邁進していたものの、欧米には敗北してもアジアでは最強とされていた清において、東洋のジブラルタルといわれた旅順の攻略は大変な困難を極めると欧米側は予想していたが、その予想を裏切る迅速さで実行された[5]

なお、この第二軍には幾人か著名人も参加していた。たとえば軍医として派遣された森?外。そして事件直後には記者として国木田独歩が旅順の土を踏んでいる。西洋画家として著名な浅井忠も新聞画家(新聞の挿絵を描く)として参加している。後に袁世凱の顧問となる有賀長雄は国際法顧問として参加し、関与している。編成・装備・訓練が統一されておらず、動員兵站指揮のシステムも近代軍として体をなしていなかった清軍に対し、近代化された日本軍は基本的に終始優勢に戦局を進めて遼東半島を占領した[4][6]
報道の経緯

9月16日に母港威海衛から出てきていた戦艦14隻と水雷艇4隻の北洋艦隊は陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、大連湾を離れた。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。索敵中の日本海軍の連合艦隊は午前10時過ぎに互いに発見した。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻を前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻を後ろにする単縦陣をとっていた。

12時50分には樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」の二隻も、予定と異なり戦闘に巻き込んで、横陣の隊形をとる30.5センチ砲を持つ北洋艦隊の旗艦「定遠」と距離6,000m離れた日本の連合艦隊との戦端が開かれた[4]。海戦の結果、無装甲艦の多かった連合艦隊は全艦で134発被弾したものの、船体を貫通しただけの命中弾が多かったために旗艦「松島」など4隻の大・中破と戦死90人、負傷197人にとどまった。それに対して、装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した[5]。なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が戦力温存のために威海衛に閉じこもったため、制海権を完全掌握するために威海衛攻略を目指す日本が旅順のある遼東半島付近の制海権をほぼ掌握した[5]。9月21日、海戦勝利の報に接した大本営は、「冬季作戦大方針」の(1)旅順半島攻略戦を実施できると判断し、第二軍の編成に着手した。その後、まず第一師団と混成第十二旅団(第六師団の半分)を上陸させ(海上輸送量の上限)、次に旅順要塞の規模などを偵察してから第二師団の出動を判断することにした。10月8日、「第一軍と互いに気脈を通し、連合艦隊と相協力し、旅順半島を占領すること」を第二軍に命じた。21日、第二軍は、海軍と調整した結果、上陸地点を金州城の東・約100kmの花園口に決定した。第一軍が鴨緑江を渡河して清の領土に入った24日、第二軍は、第一師団の第一波を花園口に上陸させた。その後、良港を求め、西に30km離れた港で糧食・弾薬を揚陸した。11月6日に第一師団が金州城の攻略に成功した。14日には第二軍は、金州城の西南50km旅順を目指して前進し、18日に偵察部隊等が遭遇戦を行った[4]

この事件発生は大きく分けて以下の二段階ある。すなわち占領直後とそれ以降である。
第一段階(11月21日午後?夕刻)旅順陥落直後、旅順市街戦と掃討戦

午後二時、第二軍司令部は旅順陥落と判断し、これを受けて第一師団師団長である山地元治中将が市内掃討を歩兵第二連隊連隊長の伊瀬知好成大佐に命じた。伊瀬知好成大佐は歩兵第一師団配下の歩兵第二連隊と同十五連隊第三大隊を率いて任務を遂行した。この二つの部隊は、土城子戦後の掃討の際に生首が鼻や耳をそがれて道路脇の柳や民家の軒先に吊されているといった日本軍死傷者に加えられた陵辱行為'’を、目撃していた。大山巌は「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり」という訓令を発していたものの[5]、これ以後、旅順の日本軍は野蛮な敵討ち的感情にとらわれたと推測する者もいる[7]

旅順市内に入り掃討作戦に二つの部隊は従事したが、このとき日本軍側は軍服を捨てた清兵のゲリラの掃討作戦を行ったと日本側は主張している[4]。この掃討戦は同じ日に行われた旅順要塞(市街の背面に位置)への攻撃と連動した作戦であり、清兵も全く戦意喪失していたわけではなく、市街でも激しい抵抗が試みられていた点は考慮を要する。

激しい戦闘のさなかの誤認だったのか、あるいは、民間人の服装の者を殺害したための言い訳だったのか、事件の第一段階で戦時国際法に明確に悖る行為がどの程度あったかについては、研究者の間でも意見が分かれている[6]。ただし、後の海外報道にて問題とされたのは以下に述べる第二段階である。
第二段階(11月22日以降25日頃まで)市街と周辺の掃討

事件の第二段階は第一段階の翌日から数日間にかけて起こった。この時旅順市内および近郊は、「旅順市街は昨夜(21日夜)既に攻略し了(おわ)り」というように、すでに清兵の組織的な抵抗はなくなってきており、そのような中で発生した事件第二段階は第一段階よりも事件でいわれる状況に近づいている。この段階で掃討任務を引き継いだのは歩兵第十四連隊及び第二十四連隊(両部隊とも混成第十二旅団所属)という九州で徴兵された部隊であった。市内には清国軍兵士らがまばらに退却したため、残存する抵抗する兵士の掃討作戦によって、民間人に危険性が起きかねない状況となり、第二軍司令部は各人・各家の安全を保証する措置を講じることとなった[4]。すなわち紙あるいは布に「此者殺すべからず、何々 隊」、「此家男子六人あるも殺すべからず」といった文面もまちまちな書き付けを中国人に与えて民衆の落ち着きを取り戻させようとしたのである。ただこうした措置は新嘗祭にあたる11月24日以降に出されたため、その対応の遅れが民間人を巻き込みかねない不作為だったとして、後に一部の外国人従軍記者に弾劾されることになる[6]。そしてこのことは、民間人男性が居住する市街の住居には、このような書き付けがなければ清国軍残党と疑われて直ちに殺される危険があったことを示している。22日の堅固な旅順要塞を日本が総攻撃で占領した後の両軍の損害は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍約12,000人のうち約9,000人が新募兵である清軍の士気が低いこともあり、戦死4,500人、捕虜600人だった[4]。第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日には、陽動部隊が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時頃には予定より2時間遅れで、脆弱なため臼砲6門と糧食の通行が後回しにされたものの本隊通過用の第一・第二軍橋が完成された。6時20分には九連城から4.5kmの地点に野砲4門が虎山砲台を設置して砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍の反撃で日本軍の戦死34人、負傷者115人が発生するような抵抗があったものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した。

翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった[5]


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