旅順艦隊
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太平洋艦隊(たいへいようかんたい、ロシア語:Тихоокеанский Флот、略称:ТОФ)は、太平洋上での作戦を目的としたソ連海軍ロシア海軍の艦隊である。太平洋艦隊は、ソ連時代に創設されたが、ロシア帝国海軍の歴史と伝統も継承しているため、ここではロシア帝国時代も含めて述べる。

太平洋艦隊は、北方艦隊に次いで、2番目に強力な艦隊である。
目次

1 歴史

1.1 帝政ロシア時代

1.2 ソビエト連邦時代

1.3 ソ連崩壊後のロシア連邦


2 編成

2.1 統合部隊

2.2 艦艇部隊

2.3 海軍航空隊

2.4 海軍歩兵・沿岸防衛部隊


3 主要基地

4 歴代司令官

5 脚注

6 外部リンク

歴史
帝政ロシア時代 太平洋艦隊の袖章

1731年オホーツク海奥にあったロシアの軍事・探検・造船の拠点、オホーツクに「オホーツク小艦隊」(Охотская военная флотилия, Okhotskaya voyennaya flotiliya)が創設された。最初の司令官はグリゴリー・スコルニャコフ=ピサレフ(Grigoriy Skornyakov-Pisarev)で、沿岸警備、漁船の防衛、先住民との戦闘、太平洋岸での旅客・物資輸送、カムチャツカやアラスカの探検、後の露米会社の設立と運営などが主な仕事であった。1799年にはイギリスなど列強の太平洋進出に対する警戒や日本との千島列島での緊張に対処するため、小艦隊は強化されることになり、3隻のフリゲート艦と3隻の小艦艇が海軍少将I.フォミンの指揮下でバルト海艦隊からオホーツクに回航された。以後、バルト海艦隊の太平洋戦隊がオホーツク小艦隊(及びその後身のシベリア小艦隊)とは別に並立するようになっている。

1849年カムチャツカ半島にある良港・ペトロパブロフスク=ナ=カムチャトカが小艦隊の根拠地となり、カムチャツカ小艦隊とも呼ばれるようになる。1850年には海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイによりアムール川河口のニコラエフスク=ナ=アムーレ(当時、正式にはまだ国領)に哨所が設けられ、アムール川沿岸や日本海沿岸の探検も行われるようになった。1854年夏にはクリミア戦争の余波でイギリス・フランス連合軍によるペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦が行われたが、オホーツク小艦隊はこれを持ちこたえるのに顕著な役割を果たし、連合軍を撃退している。この戦闘を契機として、1856年にオホーツク小艦隊は根拠地をペトロパブロフスク=カムチャツキーからニコラエフスク=ナ=アムーレに移転し、「シベリア小艦隊」(Сибирская военная флотилия, Sibirskaya voyennaya flotiliya)と改名した。

1860年北京条約により、ロシアは外満洲の割譲を受け、沿海州を獲得した。河口で水深も浅いニコラエフスクに代わり、深くて冬でも凍らない港湾が沿海州南部の日本海沿いに造られることになった。1871年にはピョートル大帝湾の良港、金角湾に建設されたウラジオストクが新たな拠点になり、極東の防衛のためにバルト海艦隊から大規模な戦隊が日本海に回航された。19世紀までは小規模な艦隊だったシベリア小艦隊は、日露関係の緊迫化やイギリス・アメリカなどの脅威により拡充が求められるようになり、ロシア政府は建艦計画を策定した。しかしその実行は遅れ、艦隊の規模も不十分であり、1880年代まで極東の根拠地にはドックもない状態で、汽走艦の入渠修理は長崎・上海などの外国港湾のドックに依存していた[1]。このころシベリア小艦隊の艦船は頻繁に越冬などの目的で日本・李氏朝鮮・清の港を訪れてそのプレゼンスを高め、特に朝鮮で、元山などを軍港として使用することを模索した。ウラジオストク港には1890年に浮ドックが、その数年後には乾ドック[2]が完成し、同港での艦船の入渠修理が可能となった[3][4]

日清戦争後には、ロシアは弱体化した清から満州のさまざまな権益を獲得し、1897年には遼東半島の清国軍港だった旅順(ポート・アーサー / ポルト=アルトゥール)および大連(ダーリニー)を占領してこれをウラジオストクに並ぶ拠点にした。1900年にはアムール川の警備のためにアムール小艦隊(Амурская военная флотилия)も設置された。日露関係の緊迫化とともに極東にはバルト海から新鋭艦が回航されるようになった[5] 金角湾のウラジオストク軍港に入るロシアの装甲巡洋艦。左はリューリク、右はグロモボーイ1903年

1904年日露戦争開戦直前の2月5日、極東にあったシベリア小艦隊やバルト海艦隊太平洋戦隊などに属する艦船は、ステパン・マカロフ海軍中将指揮下の太平洋艦隊へと再編された。この時点で、太平洋戦隊の艦船(戦艦7、巡洋艦8、水雷艇13、砲艦2)とシベリア小艦隊の艦船の一部(巡洋艦2、水雷巡洋艦2、水雷艇12、砲艦5)は旅順に拠点を置き、残りの巡洋艦(巡洋艦4、水雷艇10)はウラジオストクに残った(ウラジオストク巡洋艦隊)。直後の2月9日旅順口攻撃仁川沖海戦より太平洋艦隊は日本海軍と交戦に入った。

太平洋艦隊は旅順の閉塞防止や日本に対する通商破壊を戦い、特にウラジオストク巡洋艦隊は常陸丸事件などで日本軍の大陸への物資・兵員輸送を妨げ、日本海軍第二艦隊を旅順から遠く離れたウラジオストクや朝鮮半島周辺にくぎ付けにした。その一方でマカロフは3月31日に乗艦が触雷した際に戦死してしまい、後をヴィリゲリム・ヴィトゲフトが代行として引き継いだ。旅順艦隊にはより多くの戦力が必要であったため、バルト海艦隊から艦船を抽出して太平洋艦隊として組み込むことになり、従来の艦隊を「第一太平洋艦隊」[6]とし、増援艦隊を「第二太平洋艦隊」としてジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督指揮下のもと極東へ向かわせることとなった。しかし黄海海戦で旅順艦隊が、蔚山沖海戦でウラジオストク巡洋艦隊が打撃を受けた上、旅順の陥落により旅順艦隊は全ての艦が使用不能となってしまった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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