旅順攻囲戦
203高地
戦争:日露戦争
年月日:1904年8月19日 - 1905年1月1日
場所:旅順(満洲)
結果:日本軍の勝利、ロシアの降伏およびロシア旅順艦隊の戦闘機能喪失
交戦勢力
大日本帝国 ロシア帝国
指導者・指揮官
乃木希典 アナトーリイ・ステッセリ
ロマン・コンドラチェンコ †
戦力
約51,000名
(第一回総攻撃時)陸軍約44,000名
海軍約12,000名
その他約7,000名
(籠城戦開始時)
損害
戦死約15,400名
戦傷(延数)約44,000名戦死約16,000名
戦傷(延数)約30,000名
日露戦争
旅順口
仁川沖
旅順閉塞
鴨緑江
南山
得利寺
黄海
蔚山沖
宗谷沖
旅順攻囲
旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん、、リュイシュンこういせん、Siege of Port Arthur, 1904年(明治37年)8月19日 - 1905年(明治38年)1月1日)とは、日露戦争において、ロシア帝国の旅順要塞を、日本軍が攻略し陥落させた戦いである。 ロシアは、1896年の露清密約の後、1898年に遼東半島を租借し、旅順口を太平洋艦隊(後の第一太平洋艦隊)の主力艦隊(旅順艦隊)の根拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた(旅順要塞)。 日本は、予期される日露戦争に勝利するためには、日本本土と朝鮮半島および満洲との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が不可欠と見なしていた。また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍勢力(2個師団)は、満洲南部で予想される決戦に挑む日本軍(満洲軍)の背後(および補給にとって重要な大連港)に対する脅威であり、封じ込めもしくは無力化が必要だった。 このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討された。旅順艦隊を完全に無力化する方法として、大別して、旅順要塞の陥落、大口径艦砲(戦艦の主砲[注 1])による撃沈、旅順港永久封鎖が考えられた[注 2]。 海軍側は独力で旅順艦隊を無力化する方針を取り、第一段階:港外奇襲、第二段階:港口封鎖(閉塞)、第三段階:港外からの間接射撃によって港内の艦艇を徐々に損傷させるという作戦計画を立てた。これに基づき1903年の夏には間接射撃のための試験射撃を行った。 陸軍側は参謀本部が満洲攻勢作戦の研究を1902年より始め、その中で、旅順攻城を佐藤鋼次郎少佐が担当した。1903年11月頃の参謀本部内の意見は、兵力の大部分を遼陽方面へ北進させ予想される大決戦に集中させ、旅順は一部の兵力による封鎖監視に留めるべきとの考えが大勢だったが、佐藤少佐が攻略の必要性を主張し研究は続けられた[1]。 1903年12月30日に陸海軍間で開戦に関する協議が行われた。「旅順港外に停泊している旅順艦隊に対する奇襲を優先すべき」との海軍側の主張[注 3]と「臨時韓国派遣隊の派遣を優先すべき」との陸軍側の主張とが対立したが、陸軍が譲って海軍案に決着した。海軍は独力による旅順艦隊への対処を言明していたが[注 4]、陸軍はその後も旅順攻城の研究を進め、1904年1月、陸軍参謀本部による計画案が成り、陸軍省に所要資材の照会がなされた。 開戦後、海軍は港外奇襲と港口閉塞作戦を実行したが、不十分な結果で終わり、旅順艦隊の戦力は保全された。2月末頃からウラジオストク巡洋艦隊が活動を始めたが、第三艦隊を対馬防備に置いたまま、海軍主力による港口の閉塞を目的とした作戦は続けられた。 陸軍は3月に入っても、封鎖監視で十分であるとの考えがまだ残っていたが、最終的には、3月14日、2個師団をもって攻城を行う決定を下した。作戦目的は「地上より旅順要塞を攻略し、北上する日本軍主力の後方を安定化する」とした[注 5]。 海軍は第二回閉塞作戦を3月27日に実行したが不成功だった。しかし4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執しており、4月6日の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文に「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[注 6]。また海軍は12-13日に機雷を敷設した。4月終わり以降は第二艦隊を第三艦隊と入れ替え、旅順方面の海軍戦力は減少した。 ロシアは5月にバルト海に所在する艦船群(未完成艦含む・バルチック艦隊)の極東派遣を決定・発表した。もしもこれが未だ健在の旅順艦隊と合流すれば、日本海軍の倍近い戦力となり、朝鮮半島周辺域の制海権はロシア側に奪われ、満洲での戦争継続は絶望的になると考えられた。
背景