やくいんぜんそう
施薬院全宗
施薬院全宗像
藤浪剛一『医家先哲肖像集』(1936年)より
生誕大永6年(1526年)
近江国 甲賀郡
死没慶長4年12月10日(1600年1月25日)[1]
京都
墓地十念寺(京都府上京区)
別名徳運軒
著名な実績豊臣秀吉侍医
影響を受けたもの曲直瀬道三
宗派天台宗
配偶者永原実賢の娘
子供秀隆、宗伯(三雲資隆
施薬院 全宗(やくいん ぜんそう[1][2][3])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての医者。豊臣秀吉の側近。渡来系で多くの医者を輩出した丹波氏の出身。施薬院は古文書には薬院とも書いてある[3]。号は徳運軒で、徳運軒 全宗(とくうんけん ぜんそう)とも名乗った[3]。
妻の永原実賢の娘との間に一男(施薬院秀隆)一女がいた。 大永6年(1526年)、平安時代に医心方を著した名医・丹波康頼の二十世の末裔として生まれる。祖父・宗清、父・宗忠ともに権大僧都法印となっている。 幼少時に父を失って僧籍に入り、比叡山薬樹院の住持であったが、元亀2年(1571年)に織田信長が行わせた比叡山焼き討ちに遭い、還俗して医師を目指し、曲直瀬道三に入門して漢方医学を極めた。その後、羽柴秀吉の知遇を得て、侍医となりながら叡山の弁護にあたった。 天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で斃れると、秀吉の許可を得て荒廃した比叡山の再興に尽力した。この頃、徳運軒全宗を名乗る。 秀吉が天下人になった後の天正13年(1585年)に大飢饉と疫病の流行にみまわれると、廃絶していた祖先よりの「施薬院」の復興を願い出た。天正年間に勅命を受けて施薬院使に任命されて、従五位下に叙され昇殿を許される。7月下旬から9月までの間に号を「施薬院」とした[1]。この施薬院は奈良時代・光明皇后による創建以来、800年の時を経て完全に形骸化していたが、全宗はこれを復興して、身分の上下を問わない施療を再開した[1]。 天正13年(1585年)10月6日、秀吉より山城御室戸・大鳳寺・上条等で200石を与えられる[3]。さらに同年11月27日には山城・丹波内で450石を加増[3]。 「(全宗の)言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」(『寛政重修諸家譜』)というほど秀吉の信頼は厚く、秀吉から偏諱を与えられた息子の秀隆とともに秀吉側近としても活躍。 天正15年(1587年)発布の定・バテレン追放令は全宗の筆によるもので、切支丹追放にも活躍。豊臣氏番医の筆頭として、番医制の運営につとめる[1]。同年10月2日、丹波桑田郡内で305石を加増[3]。 天正18年(1590年)、小田原の役の際に伊達政宗に上京を促す勧告使、佐竹義重との交渉役を務めている。また、同年に嫡男の秀隆が病没(外来の伝染病という)したため、近江の三雲資隆
生涯
天正19年(1591年)9月18日、加増を含めて1,265石の知行[3]。
文禄年間、豊臣秀次の失脚事件で(道三養子の)曲直瀬玄朔が流罪となったのを契機に、曲直瀬一門の結束が全宗を頂点に強化されたことが知られる[4]。後に正四位に陞叙。
慶長元年12月10日(1597年1月27日)に没したとされてきたが、宮本義己により慶長4年12月10日(1600年1月25日)没であることが判明した[1]。