方苞(ほう・ぼう、1668年?1749年)清代中国の儒学者、文人、政治家。字は鳳九、号は靈皋、晩年には望溪と号する。
安徽桐城(現在の安徽省樅陽県)の出身。幼い頃から聡明で兄とともに群書を考究し、古文辞に詳しかったために会試副考官だった李光地
生涯
このように清朝三代に仕えて信任を得、上疏して用いられることが多く、担当は救荒・理財・農桑・治水・人材登用など多方面にわたり、士大夫たちの教育にも努めた。しかし、河道総督の高斌と争って弾劾されて、減俸の上、帰郷させられる。引退後は宗祠を建て祭礼を定め祭田を設けるなどもっぱら風教を復興する活動に従事した。その学問は朱子学を主とし、その文は唐宋の古文を規範とし、後の桐城派を形成する。門下には、劉大?・姚姫がいる。 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年8月)
著作
『周官弁』12巻
『周官集注』12巻
『周官析疑』36巻
『春秋通論』4巻
『春秋直解』12巻
『礼記析疑』46巻
『儀礼析疑』17巻
『喪礼或問』1巻
『左伝義法挙要』1巻
『史記注捕正』1巻
『離騒正義』1巻
『春秋比事目録』4巻
『望溪集』
参考文献
『清史稿』巻290
『清史』列伝第19
『国朝先正事略』巻14
内藤湖南『清朝史通論』
外部リンク
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更新日時:2017年9月5日(火)22:46
取得日時:2018/04/30 09:48