この項目では、京都市にある天台宗寺院について説明しています。その他の用法については「方広寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
方広寺
現在の方広寺本堂。妙法院の脇寺であった日厳院の客殿を、明治初頭に移築したものである。建物の創建は17世紀とされ、方広寺本尊を安置するため改変を受けているが、天台門跡寺院の客殿建築としては京都最古と考えられている[1]。
所在地京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分31.58秒 東経135度46分19.43秒 / 北緯34.9921056度 東経135.7720639度 / 34.9921056; 135.7720639
方広寺(ほうこうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。通称は「大仏」・「大仏殿」・「大仏殿方広寺」。方広寺鐘銘事件(京都大仏鐘銘事件)の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られる。
かつて方広寺に存在し、日本一の高さ・規模を誇っていた大仏及び大仏殿の詳細については「京の大仏」の記事を参照のこと。 豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として文禄4年(1595年)に創建された。豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、それらは文献記録によれば、6丈3尺(約19m)とされ、東大寺大仏の高さ(14.7m)を上回り、大仏としては日本一の高さを誇っていた。そのため江戸時代には、3代目大仏が寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、日本三大仏の一つに数えられた[7]。大田南畝著とされる『半日閑話(街談録)』には3代目大仏が落雷で焼失した時について「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也[8]」とあり、3代目大仏の焼失は京都民衆に大変惜しまれた。東大寺大仏と異なり、3代目大仏は木造であったため、大仏は(台座・基壇を除き)跡形もなくなってしまった。 東大寺大仏殿の再建が完了した宝永6年(1709年)から、方広寺大仏・大仏殿が落雷で焼失した寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代の東大寺大仏殿再建にあたり、方広寺2代目大仏殿を手本として大仏殿が設計されたことから、現存の東大寺大仏殿の建築意匠は方広寺大仏殿のそれを引き継いだものと言っても過言ではない[9]。 天保14年(1843年)に規模が縮小されつつも再建された4代目大仏は、昭和48年(1973年)まで存続していたが、失火により焼失し、方広寺から大仏は姿を消した。 「方広寺」という寺号は創建当時から江戸初期にかけての文献には一切現れず[10][11]、単に大仏(殿)、もしくは新大仏(殿)、京大仏(殿)、東山大仏(殿)、京東大仏(殿)、洛東大仏(殿)などと呼称されていた。方広寺大仏を発願した豊臣秀吉は、正式な寺号を定めていない。方広寺命名の経緯・時期は不明だが自然発生的なものとされる。経典(大方広経)もしくは方広会から採ったものともいわれ[11]、またそれらにかこつけて秀吉の尊称「豊公(ほうこう)」の名を託したとも考えられる。 秀吉としては方広寺及び方広寺大仏のことを単に「大仏(殿)」と公称していた(事実上 寺の名は「大仏(殿)」であった)。これは方広寺大仏のほかに大仏と称せる像は日本にはないとする秀吉の自負の表れと考えられている[10](なお秀吉の造立した建造物には京都新城のように正式名称が定められていないものが多々ある。)。同時代に日本を訪れたヨーロッパ宣教師・貿易商人が書き残した史料には、「だいぶつ」を音写した語で表記されており、例えばベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが著した『日本王国記』には、「Daybut」と表記されている [12]。方広寺の寺号が生じてからも上記の経緯から、「大仏殿」を語頭に冠し「大仏殿方広寺」と称されることが多かった。昭和48年(1973年)の4代目大仏焼失以前に方広寺が配布していた拝観者用パンフレットの題名も「大仏殿方広寺拝観の栞」と表記されている。 なお「大仏」という呼称は、方広寺界隈一帯を指す地名でもあり、後述のように三十三間堂はかつて方広寺の境内に組み込まれており、また現在京都国立博物館の立地する敷地も方広寺の寺領であったが、それら一帯の地名も「大仏」と称されていた。「大仏前交番」や「京都大仏前郵便局」、「(関西電力)大仏変電所」「京阪大仏前駅(現七条駅)」という施設名称はその名残である。 補注:江戸時代に出版された都名所図会や名所記、その他仮名草子などで、方広寺大仏を「十六丈の大仏」と紹介しているものもあるが、16丈(約48m)というのは大仏座像が立ち上がったと仮定した場合の高さ寸法であって、実際の像高が16丈もあった訳ではない[15]。
概要
呼称
かつて存在した大仏についての概略
種類:毘盧遮那仏(びるしゃな-ぶつ)
形式:木製漆塗金張坐像(初代)、銅製金張坐像(2代目)、木製金張坐像(3代目)、木製胸像(4代目)
高さ:6丈3尺 約19m(初代?3代目)、4丈7尺 約14m(4代目)[13][14]