方丈記
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Clip 大福光寺本(鎌倉前期写、 鴨長明自筆)

『方丈記』(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代随筆[1]日本中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日本三大随筆」に数えられる。
概要方丈庵(復元)
下鴨神社京都市左京区)境内の河合神社に展示。

晩年に長明は、の郊外・日野(日野岳とも表記、京都市伏見区日野山)に一四方(方丈)の小庵をむすび隠棲した。庵に住みつつ当時の世間を観察し書き記した記録であることから、自ら「方丈記」と名づけた。

末尾に「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒツコモリコロ、桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」(大福光寺本)とあることから、1212年(建暦2年)3月末日に記されたとされる。現存する最古の写本は、大福光寺(京都府京丹波町)が所蔵する大福光寺本である。これを自筆本とする見解[2]、誤字・脱字や諸本との関係より自筆ではないとする見解[3] が分かれている。

漢字仮名の混ざった和漢混淆文で記述された最初の優れた文芸作品であり、詠嘆表現や対句表現を多用し、漢文の語法、歌語、仏教用語を織り交ぜる。慶滋保胤『池亭記』を手本としていることが指摘されており、かつてはこれを根拠の一として偽書説も唱えられていた。隠棲文学の祖や、無常観の文学とも言われ、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論ともされる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出しで移り行くもののはかなさを語った後、同時代の災厄についての記述が続き、後半は草庵での生活が語られる。さらに末尾では自身の草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定的な見解を述べている。

書きだしは以下のとおりである。行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
諸本前田家本(鎌倉末期 - 室町初期写、伝 冷泉為相筆)

広本と略本があり、広本は更に古本系と流布本系に分けられている[4]

広本

古本系 : 大福光寺本、前田家本 など

流布本系 : 一条兼良本、嵯峨本 など


略本 : 長享本、延徳本、真名本 など

各本の関係を、長明自身による推敲の各段階を表すとする見解と、後代の書写、改作による変化とする見解がある。

現代の研究において底本とされることの多い大福光寺本は古本系に属し、漢字片仮名による仮名交じり文である。これに対して、流布本系は平仮名交じりの仮名交じり文で書かれ、古本系との本文の異同も少なからず存在する。

略本は長明の体験した災厄に関する記述がなく、その他の部分にも異同が大きい。中でも真名本は漢字のみで書かれている。
天災・飢饉に関する記述

『方丈記』の中で長明は、安元3年(1177年)の都の火災、治承4年(1180年)に同じく都で発生した竜巻およびその直後の福原京遷都養和年間(1181年?1182年)の飢饉、さらに元暦2年(1185年)に都を襲った大地震文治地震)など、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、歴史資料としても利用されている。
安元の大火

安元3年4月28日(1177年5月27日)午後8時頃、都の東南(現在のJR京都駅付近か)で、舞人の宿屋の火の不始末が原因で出火した。火はまたたく間に都の西北に向かって燃え広がり、朱雀門大極殿大学寮民部省などが一夜のうちに灰燼に帰した。


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