新青年_(日本)
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この項目では、日本の雑誌について説明しています。中国の雑誌については「新青年 (中国)」をご覧ください。

新青年
創刊号(1920年1月号)の表紙
ジャンル総合雑誌
刊行頻度月刊
発売国 日本
言語日本語
出版社博文館
→江古田書房
→文友館
→博友社
編集長森下雨村
横溝正史
延原謙
水谷準
上塚貞雄
→水谷準
横溝武夫
→高森栄次
刊行期間1920年1月号 - 1950年7月号
発行部数30,000部(1937年1月内務省警保局[1]調べ)
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『新青年』(しんせいねん)は、1920年に創刊され、1950年まで続いた日本雑誌。発行は博文館(末期は同社解体のため、江古田書房→文友館→博友社に移籍)。

1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つであり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。国内外の探偵小説を紹介し、また江戸川乱歩横溝正史を初めとする多くの探偵小説作家の活躍の場となって、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たした。また牧逸馬夢野久作小栗虫太郎久生十蘭といった異端作家を生み出した。平均発行部数は3万部前後、多い時は5-6万部に達していたと言われている[2]。また内務省警保局による調査では、1927年(昭和2年)当時約1万5000部[3]、第18巻第1号(1937年2月1日発行)が3万部、第19巻第3号(1938年2月5日発行)が2万1000部となっている[1]

日本の探偵小説を語る上で欠かすことのできない雑誌であるが、探偵小説専門誌でもなければ小説専門誌でもなく、現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった[4]
歴史
創刊

博文館では日露戦争後から発行していた『冒険世界』(『日露戦争写真画報』『写真画報』から改名)が大正になって時代に合わなくなったため、編集長となった森下雨村に今後の方針を任せ、森下らは若い層に向けた新雑誌の構想を立て、社主の意向で地方青年向きの内容で『新青年』という名前の雑誌として、1920年(大正9年)1月に創刊した[5]。当初は、若者の背中を押し海外雄飛を促すことをねらった、ブラジルに移住して新天地を拓こうといった類の評論が巻頭を飾るような硬派な雑誌であったが、森下が主導し翻訳探偵小説を載せるようになると、やがて日本における探偵小説の唯一の発表舞台として不動の地位を築き、海外雄飛を奨励する傾向は自然消滅した[6]。探偵小説は、当時の他の娯楽雑誌ではほとんど扱いが無く『新青年』の独自性を高める要因になった[7]

翻訳小説では、創刊号では青年向き読物の他に、編集局長長谷川天渓の発案でオースティン・フリーマン「オシリスの眼」(保篠龍緒訳)、雨村によるセクストン・ブレイクものの紹介を掲載した。創作では、10枚の掌編ミステリ小説の懸賞募集を行った[5]。1921年1月号では翻訳6編、8月には増刊号「探偵小説傑作集」を発行し、モーリス・ルブラン水晶の栓」、チェスタトン青い十字架」、L.J.ビーストン「マイナスの夜光珠」などを掲載。1922年からはこの増刊は年2回発行された。また募集により、1920年に八重野潮路(西田政治、「林檎の皮」1920年4月号)、21年に横溝正史(「恐ろしき四月馬鹿」1921年4月号)、22年に水谷準(「好敵手」1922年12月号)がそれぞれ入選する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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