新関 欽哉(にいぜき きんや、1916年1月4日 - 2003年8月11日)は、日本の外交官。目次 東京都出身。武蔵高等学校を卒業後、1938年東京大学法学部政治学科卒。 外務省に入省し、外務省在外研究員(昭13)、欧米局第5課長(ソ連課長)(昭26)、在ソ大使館参事官(代理大使)(昭31)、欧亜局参事官(昭33)、大臣官房国際資料部長(初代)(昭38)、在香港総領事(昭38)、情報文化局長(昭和41)、在オーストリア特命全権大使(昭43)、在ソ連特命全権大使(昭46)、在モンゴル大使兼任(昭47)、在インド特命全権大使(昭48)。オーストリア、ソ連、インドの各大使を務める。その後、日本国際問題研究所理事長、ソ連研究センター所長、原子力委員会委員を務める。2003年死去。 印章の研究者[1]でもあった。 新関自身は杉原千畝と職場の同僚であった。杉原が駐リトアニア在カウナス日本領事館で、責任者としてナチスの迫害から逃れるためにユダヤ人に「命のビザ」を書き、後に敬意を込め「東洋のシンドラー」と呼ばれた壮絶な現場に親族以外で唯一立ち会った証人でもある。だが千畝の没後の1988年に出版した回想録『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』で、リトアニア領事館の杉原千畝に言及しているにもかかわらず、日本公使館にユダヤ難民が殺到するという前代未聞の外交事件に一行も触れていない。新関は、外務省が「千畝手記」を秘密裏に抹消するのに協力した代わりに、ベルリン大使館三等書記官から外務省ソ連課に異動した。また、杉原千畝退職時に外務省筋から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」などという根拠のない噂が流された時も、新関はそれを打ち消すことをしなかった。 昭和史研究者の杉原誠四郎は、「この人物は押し寄せるユダヤ難民を掻き分けるようにして領事館に入り、そして領事館に一泊した」のだから、「この噂が根も葉もないことであることを、新関欽哉はまっさきに証言しなければならない道義的立場にある」と批判している[2]。
1 経歴
2 検証
3 親族
4 脚注
5 参考文献
経歴
検証
親族
父 新関良三(ドイツ文学者、埼玉大学学長)
脚注^ 関連著作に以下がある。
『東西印章史』東京堂出版、1995年。大著
『ハンコロジー事始め 印章が語る世界史』NHKブックス、1991年
『ハンコの文化史 古代ギリシャから現代日本まで』PHP研究所、1987年。新書判、下記は新版
^ 『杉原千畝と日本の外務省』大正出版。pp.200-201
参考文献
新関欽哉 『第二次大戦下ベルリン最後の日 : ある外交官の記録』 日本放送出版協会<NHKブックス>、1988年。著者肖像
新関欽哉 『日ソ交渉の舞台裏:ある外交官の記録』 日本放送出版協会<NHKブックス>、1989年。著者経歴
新関欽哉 『ハンコの文化史』 吉川弘文館<読みなおす日本史>、2015年。著者経歴
表
話
編
歴
表
話
編
歴
在オーストリア日本大使
在オーストリア=ハンガリー帝国全権公使
佐野常民1873 弁理公使 / 1873-1874
河瀬真孝1873 弁理公使
青木周蔵1875-1880
井田譲1880-1882
上野景範1882-1884
西園寺公望1885-1887
戸田氏共1887-1890
渡辺洪基1890-1892
高平小五郎1896-1899
牧野伸顕1899-1906
大使館昇格1907
在オーストリア=ハンガリー帝国全権大使
内田康哉1907-1909
秋月左都夫1910-1913
佐藤愛麿1914
第一次大戦中引揚
在オーストリア全権公使
公使館開設
本多熊太郎1921-1924
赤塚正助1924-1926
大野守衛1927-1930