新間寿
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新間寿(2017年12月撮影)

新間 寿(しんま ひさし、1935年昭和10年〉3月22日[1] - )は、日本の実業家。元新日本プロレス専務取締役兼営業本部長及び元WWF会長。現在は新間事務所代表取締役社長、リアルジャパンプロレス会長。

実父は東京プロレスを立ち上げ、新日本プロレス役員も務めた新間信雄。息子の新間寿恒もユニバーサル・プロレスリング(後にFULLと改称)を立ち上げるなどプロレス業界の裏方で働いている。
来歴

1935年東京都新宿区にて生まれる。中央大学に入学後、柔道部に所属する傍ら、強い男に憧れ、当時日本橋人形町にあった日本プロレスの道場にボディビル練習生として通う。胸と腕の筋肉を大きくしたかった新間は力道山から「3ヵ月間、オマエはベンチプレスだけをやれ」と命じられ、当初40kgも上がらなかったウエイトが55kgまで上がるようになった(当時はベンチプレスが一般に浸透していなかった)[2]。この時後に新間の人生を左右する事となる豊登と知り合う。

日本プロレスの練習生ではあったが、昭和の巌流島では自身が柔道を経験していたということもあって木村政彦の方を応援していた[2]。大学卒業後、大手化粧品メーカーのマックスファクターでのサラリーマン生活を経て、1966年、豊登の誘いをうけて、当時、寺の住職を務めていた[3]実父の信雄と共に東京プロレスの立ち上げに携わる。そこからアントニオ猪木との関係が生まれ、東京プロレス倒産を理由に父から勘当を言い渡され、小来川鉱山の鉱夫として4年間に渡って極寒の僻地で鉱山労働に従事[4]。その後東京へ戻り、ダイナパワーという自動車燃費を向上させる器具を売るセールスマンを行い、豊登とともに全国行脚を行っていたが、豊登は新間が稼いだ金でギャンブルを行っていた[5]。そして寿屋パン店経営を行い、またもや働きながら豊登の面倒を見た[5]

これらの仕事を経て1972年新日本プロレス入社。専務取締役営業本部長の肩書きで、猪木の右腕として数々の名勝負を実現へと導いた。その中で最大の功績は「アントニオ猪木対モハメド・アリ」戦を実現させたことである。また、佐山聡タイガーマスクとして現実の世界に登場させ、IWGPの構想を提唱するなど、新日本プロレスに残した足跡は計り知れない。福田赳夫からは「常在戦場。常に戦いの場に挑む猪木君の良き参謀として、猪木君の最高の戦いの場を模索し、多くのファンを楽しませ、数々のドラマを作り上げた」と評されている[6]。1980年代前半の全盛期には「プロレスブームではなく、新日本プロレスブーム」との発言も残している(新間の言う通り、1980年代にはライバルの全日本プロレスの中継は新日本よりも早くゴールデンタイムから撤退しており、第三団体の国際プロレスに至っては1981年夏に崩壊している)。アリ戦の巨額の赤字が問題となり形式上降格された時期があったが、その時期も変わらず辣腕を振るっていた。

1983年、『新日本クーデター未遂事件』の責任を取る形で、営業本部長を解任された(この時は猪木も代表取締役社長を一時解任されている)。営業部長の大塚直樹からは「クーデターには猪木、坂口征二、自身以外の全員が関与している」と聞かされるが新間は、下関に雲隠れした佐山は関与しているはずがないと考えていた。当時の週刊誌は「あのクーデターはタイガーがやったんだ」と書き立てたが、後に佐山は新間との対談で関与を否定している。

解任に際してジャパンライフ(磁気治療器、寝具、羽毛布団などの製造・卸・販売を業務とする)の政治連盟の幹事長の職に就き、その時新日本でもらっていた月給80万円より高い120万円を月給としてジャパンライフの関係者から決められた[7]。そしてUWFを設立するが、1年ほどで崩壊し、その後も新日本の裏方を続けた。猪木がNWA加盟を拒否されたため、新日本代表としてNWAの名義人となっていたのも、新間と坂口征二であった。

また、その手腕を買われてジャパン女子プロレスの経営にも関与し、子飼い的な存在であったグラン浜田をコーチとして送り込んだこともある。また、ジャパン女子プロレスの経営不振に際しては、空手士道館や男子プロレスなどを融合した『格闘技連合』としての団体再建プランも画策していたとされる[8]

息子である寿恒が代表兼プロモーターを務めたユニバーサル・プロレスリングでも、同団体の役職に就くことはなかったものの、所属選手であった浅井嘉浩(現:ウルティモ・ドラゴン)のSWS移籍騒動の際にも団体を代表する形で、当時SWS社長であった天龍源一郎に対して直談判しているなど、団体に対する影響力を保持していた[9]

2019年WWE殿堂のレガシー部門に迎えられた[10][11]
スポーツ平和党結成から猪木告発そして和解まで

1989年には猪木が立ち上げたスポーツ平和党の幹事長に就任、1992年第16回参議院議員通常選挙では比例代表より立候補し落選している。

スポーツ平和党の運営を巡っては猪木の税金未納疑惑が発覚すると江本孟紀副党首に金銭疑惑を追及され、党の行方が注目される中、政治評論家の菊池久から"親密な仲"と噂された佐藤久美子公設第一秘書が記者会見を行い決別を宣言、新間もその後袂を分かち、一時は猪木の告発本を執筆した。

常日頃「私はアントニオ猪木とプロレスの悪口は言ったことがない」と公言し、告発したのは「一個人としての猪木寛至」であり、「プロレスラー・アントニオ猪木」ではないなどと発言していたが、スポーツ平和党幹事長だった1995年に告発本の出版予定日を繰り上げて記者会見を行い「女性の方は耳をふさいでください・・・アントニオ猪木のPKO・・・それはパンパン来い来いおまんちょやろう」と発言しその模様は、TBSで全国に生中継された(ちなみに、この放送をたまたまリングス関係者が見ており、前田日明に「猪木さんが大変なことになってますよ!」と伝えたら「何言ってるんだ、いつものことや!そのうち仲直りするさ!」と全く取り合わなかった、という話がある)。また猪木の秘書を便所に連れこみ平手打ちをするなど毎日のようにワイドショーで取り上げられていた。


猪木落選後は、猪木や新日本プロレスとの関係が疎遠となるが、2002年東京スポーツ新聞社桜井康雄元取締役が間を取り持ち猪木と新間電撃和解と報じる、そして猪木事務所のアドバイザーとして復帰すると、ジャングルファイトをプロデュースし、翌2003年の新日本プロレスの東京ドーム大会では約20年ぶりにリングに上り、その存在をアピールする。

現在は「天下のプロレスご意見番」として雑誌などに登場し、プロレス界に苦言を呈している。

しかし「暴露本」を出したミスター高橋のことは激しく非難しており「暴露本」が自身の元に届いた時も引き破った。ただし、新間が「これこの通り猪木のビッグマッチはほとんどミスター高橋以外が裁いている」[12]と言って持ち出してきた試合一覧は、大半が他流試合と異種格闘技戦(つまり新日本側・プロレス側である高橋が裁くのはあり得ない試合)であった。また、高橋の「今の新日本プロレスに猪木さんをポンと入れたらどうなるか?と想像もした。おそらく猪木さんはついていけないでしょう。私個人は猪木さんのプロレスが一番好き。でもそんな時代も遠ざかりつつあることをこの目で確認した」という、現在のプロレスファンに迎合し、猪木を貶めるような発言に立腹したことがある[13]


その他

WWE創業者一族のマクマホン家とは家族ぐるみの付き合いである。特にビンス・マクマホン・シニアとの交流は有名で、亡くなる直前、新日本に立会人として来日した際のパーティの挨拶で「ここに私の友人である新間がいないことは寂しい」とコメントした。また新間はその時、プロレスの表舞台から消えている時だった。後にシニアの訃報を聞いて雑誌のインタビューで追悼と共に、シニアのこのコメントに対する謝意を示していた。

メキシコUWAの初代代表であるフランシスコ・フローレス、2代目代表のカルロス・マイネスからも絶大な信頼を受けていた。新間が提唱したIWGP構想に賛同して参加したが、新間への信頼から、律儀にメキシコ予選リーグ戦を開催した。IWGPリーグ戦第一回大会において、予選を勝ち抜いて本選に出場したのは、アジア代表の猪木・キラー・カーンと、中南米代表のカネックエンリケ・ベラのみである。


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