逢坂山トンネル(おうさかやまトンネル)は、いずれも、滋賀県大津市と京都府京都市山科区の間にある逢坂山に掘削されたトンネルである。なお、トンネル自体は滋賀県内に位置する。逢坂山には古代から逢坂関が置かれたが、京都(平安京)のすぐ東方に設置され、東山道・北陸道が通過する逢坂関は交通の要衝であり、また平安時代以降、たびたび和歌に詠まれる名勝でもあった。
本項目では以下の3本のトンネルについて記載する。いずれのトンネルも100年以上前に建設されたため、建設当時の「隧道」で表記を統一する。長さの単位も建設当時の表記を併用する[注釈 1]。 逢坂山隧道旧逢坂山隧道東口坑門(正面)
東海道本線の旧線区間にかつて存在した逢坂山隧道(旧逢坂山トンネル)
東海道本線の新逢坂山隧道(新逢坂山トンネル)及び東山隧道(東山トンネル)
京阪京津線の逢坂山隧道
東海道本線旧逢坂山隧道東口。名神高速道路の建設に伴い、西側坑口は埋められている。
逢坂山隧道
概要
路線東海道本線(旧線)
位置滋賀県大津市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分0.4秒 東経135度51分29.77秒 / 北緯35.000111度 東経135.8582694度 / 35.000111; 135.8582694
現況廃止(#廃止後を参照)
起点滋賀県大津市逢坂一丁目
終点滋賀県大津市大谷町
運用
建設開始1878年(明治11年)10月5日
完成1880年(明治13年)6月28日
開通1880年(明治13年)7月15日
閉鎖1921年(大正10年)8月1日
所有西日本旅客鉄道
技術情報
全長下り線:2,181呎(664.76m)
上り線:2,210呎(673.61m)
軌道数2(単線×2)
軌間1,067mm(狭軌)
電化の有無なし
最高部181m
高さ14呎(4.267m)
勾配25パーミル
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逢坂山隧道は日本で初めて掘削された山岳トンネルで、外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた。工事の総監督は工技生養成所長の飯田俊徳が、現場の工事監督は工技生養成所卒業生の国沢能長が務め、工部省の生野銀山の鉱夫を借り受けるなどして、藤田組・吉山組の提携組が施工した。この工事の功績により、国沢能長は6等技手から3等技手に抜擢された[1]。
この隧道は、長さ2,181呎(664.76m)、最大幅は14呎(4.267m)、施工基面(F.L.[注釈 2])の幅は10呎(3.048m)、高さは施工基面から15呎6吋(4.724m)、軌条面(R.L.[注釈 2])からは14呎(4.267m)で断面は馬蹄形だった[注釈 1]。この断面は新橋駅(後の汐留駅) - 神戸駅間が開通する1889年(明治22年)まで鉄道隧道の標準とされた[2]。構造は坑門が整層切石積みで控壁、要石を有している[3]。坑内は煉瓦積みで、上半部のアーチは長手積み、側壁はイギリス積みを採用している[4]。
この工事の竣功を記念して、隧道の東口には太政大臣三条実美の揮毫による「楽成頼功 明治庚辰七月[注釈 3]」の石額(扁額)が、西口には鉄道局長技監井上勝による工事の経過を寿ぐ石額が掲げられた[5][6]。「楽成頼功」は「工事に関わった人々の功に頼って落成した」を意味し、「落の字は落盤に通じるために楽に置き換えた」とされる[7]。なお、西口は名神高速道路の建設に伴い盛土の地下に埋没したが、井上勝の石額(旧逢坂山隧道石額)は大阪市の交通科学館(1990年(平成2年)に交通科学博物館へ改称)に収蔵・展示され[3][8][注釈 4]、同館閉館後は京都鉄道博物館へ移設・展示されている。 1874年(明治7年)5月11日の大阪駅 - 神戸駅間の仮開業を経て、1877年(明治10年)2月5日に京都駅 - 大阪駅間が開業。その後、敦賀まで延伸する計画だったが、佐賀の乱・台湾征討・西南戦争等で政府の財政が逼迫し、鉄道建設を許さぬ状態となって着手が遅れていた[9]。 京都駅 - 大津駅間の建設に際し、京都と大津を一直線で結ぶと東山と逢坂山に長大トンネルを2つ掘削しなければならず、当時の鉄道土木技術では不可能だった。そのため、東山を避けるルートの調査と測量が三次にわたって行われ、京都から南下して東山山地を大きく迂回して大津に向かうルートが採用された。具体的には、京都駅から南下して鴨川を渡り、伏見街道の西側に沿って南下し(現在の奈良線)、稲荷駅を経由して東山山地の南端である稲荷山に沿って山科盆地へ抜け、山科盆地を南西から北東方向に斜めに横断して追分村(現在の滋賀県大津市追分町)に至り、旧東海道の北側に沿って隧道を抜け、馬場駅(現・膳所駅)に達するものである[10]。
建設の経緯