新補地頭
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この項目では、鎌倉幕府・室町幕府の役職について説明しています。その他の用法については「地頭 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

地頭(じとう)は、鎌倉幕府室町幕府荘園国衙領公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。

平安時代平氏政権期以前)から存在しており、鎌倉時代には源頼朝朝廷からの認可を得て全国へ設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領において武力に基づき軍事警察徴税権を担保し、土地や百姓を自己の物とした。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。目次

1 概要

2 沿革

2.1 発生

2.2 発展

2.3 室町期

2.4 江戸時代

2.4.1 薩摩藩

2.4.1.1 歴史

2.4.1.2 概要


2.4.2 飫肥藩



3 脚注

3.1 注釈

3.2 出典


4 関連項目

5 外部リンク

概要

          (頼朝花押)
下  伊勢国波出御厨
 補任  地頭職事
      左兵衛尉
惟宗忠久
右、件所者、故出羽守平信兼党類領也。
而信兼依発謀反、令追討畢。仍任先例
為令勤仕公役、所補地頭職也。早為彼職
可致沙汰之状如件。以下。
   元暦二年六月十五日以上は、惟宗忠久を波出御厨(伊勢国)地頭職に補任する内容の源頼朝による下文。

幕府が御家人の所領支配を保証することを本領安堵(ほんりょうあんど)といい、幕府が新たに所領を与えることを新恩給与(しんおんきゅうよ)というが、いずれも地頭職への補任という手段を通じて行われた。地頭職への補任は、所領そのものの支給ではなく、所領の管理・支配の権限を認めることを意味していた。所領を巡る紛争(所務沙汰)の際には、幕府の保証する地頭の地位だけでは必ずしも十分ではない場合もあり、地頭の中には荘園領主国司から荘官郡司郷司保司として任命される者も少なくなかった。逆に、近衛家家司であった惟宗忠久が、頼朝の推薦を受け島津荘下司職に就任(元暦2年(1185年)8月17日[1])した後、同地の惣地頭に任じられた例もある。つまり地頭は、幕府及び荘園領主・国司からの二重支配を受けていたと見ることもできる訳である。実際に、幕府が定めた法典御成敗式目には、荘園領主への年貢未納があった場合には地頭職を解任するといった条文もあった。むしろ、幕府に直属する武士は御家人と地頭の両方の側面を持ち、御家人としての立場は鎌倉殿への奉仕であり、地頭職は、徴税、警察、裁判の責任者として国衙と荘園領主に奉仕する立場であったとする解釈もある。

鎌倉幕府の成立段階では、荘園領主・国司の権力は依然として強く、一方地頭に任命された武士は現地の事情と識字と行政に疎い東国出身者が多かった。このため、独力で遠隔地の荘園の経営に当たれる現地沙汰人を準備し、年貢運搬の準備、荘園領主側との交渉、年貢の決解・算用などの事務的能力(またはそれが出来る人材)を必要とした。伊勢国治田御厨の地頭に補任されながら、現地沙汰人が荘園領主である伊勢神宮と対立して処分された畠山重忠千葉胤正里見義成等に対して「現地に良い眼代(代官)が得られないならば、(新恩の)領地を戴くべきではない」と述べている(『吾妻鏡』文治3年10月4日条)。このため、大江広元一条能保惟宗忠久など京都出身の官人や家司経験者が戦功とは無関係にその事務能力によって地頭に補任された例も見られる[2]

しかし、地頭の補任権・解任権は幕府だけが有しており、荘園領主・国司にはその権限がなかった。そのため、地頭はその地位を背景に、勧農の実施などをとおして荘園・公領の管理支配権を徐々に奪っていった。具体的には、地頭は様々な理由をつけては荘園領主・国司への年貢を滞納・横領し、両者間に紛争が生じると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請(じとううけ)を行うようになった。地頭請は、不作の年でも約束額を領主・国司へ納入するといったリスクを負ってはいたが、一定額の年貢の他は自由収入とすることができたため、地頭は無法な重税に因り多大な利益を搾取するケースが多かった。そして、この制度により地頭は荘園・公領を徐々に横領していった。

それでも荘園領主・国司へ約束額を納入しない地頭がいたため、荘園・公領の領域自体を地頭と領主・国司で折半する中分(ちゅうぶん)が行われることもあった。中分には、両者の談合(和与)で決着する和与中分(わよちゅうぶん)や、荘園・公領に境界を引いて完全に分割する下地中分(したじちゅうぶん)があった。

地頭は、居館(堀内:ほりうち等と称した)の周辺に直営地を保有していた。平安?鎌倉期の慣習では、居館は年貢・公事が免除される土地とされており、それを根拠として、地頭は居館の周辺を免税地として直営するようになった。この直営地は、佃(つくだ)、御作(みつくり)、正作(しょうさく)、門田(かどた)などと呼ばれ、地頭の保有する農奴である下人(げにん)や所従(しょじゅう)、又は小作の荘民に耕作をさせていた。この直営地からの収入は、そのまま地頭の利得となった。

以上のような地頭請・下地中分・直営地の拡大は、地頭が荘園・国衙領の土地支配権(下地進止権)へ侵出していったことを表す。当然、荘園領主は地頭の動きに対抗していたが、全般的に見ると地頭の侵出は加速していった。こうした流れは、地頭による一円知行化へと進み、次第に荘園公領制の解体を推し進めたのである。

地頭は元来、現地という意味を持ち、在地で荘園・公領の管理・治安維持に当たることを任務としていた。多くの地頭は任務地に在住し、在地管理を行っていた。しかし、有力御家人などは、幕府の役職を持ち、将軍へ伺候しなければならず、鎌倉に居住する者が多かった。そうした有力御家人は、自分の親族・家臣を現地へ派遣して在地管理を行わせていた。親族に管理させた場合、御家人(惣領)とその親族(庶子)との間で所領を巡る相論が発生することもあり、親族に地頭職を譲渡するケースもあった。


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