新薬師寺
本堂 (国宝)
所在地奈良県奈良市高畑町1352
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度40分33.1秒 東経135度50分46.2秒 / 北緯34.675861度 東経135.846167度 / 34.675861; 135.846167
新薬師寺(しんやくしじ)は、奈良県奈良市高畑町にある華厳宗の寺院。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。本尊は薬師如来。開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。奈良時代には南都十大寺の1つに数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像をはじめ、多くの文化財を伝えている。 奈良市街地の南東方、春日大社の二の鳥居の南方に位置する。最盛期には4町(約440メートル)四方の寺地を有し、現在の奈良教育大学のキャンパスあたりまでが新薬師寺の境内地であった。 新薬師寺は奈良時代(8世紀)創建の官立寺院であることは間違いないが、創建の正確な時期や事情については正史に記載がない。平安時代末期成立の『東大寺要録』には、末寺である新薬師寺についての記載があり、同書の巻第一・本願章には「天平19年(747年)、光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。また、同書巻第六・末寺章によれば、新薬師寺は別名を香薬寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄土七躯」があったという。天平宝字6年3月1日(762年3月30日)の「造東大寺司告朔解」(こくさくげ)という文書(正倉院文書)によると、当時「造香山薬師寺所」という臨時の役所が存在し、香山薬師寺(新薬師寺の別名)の造営がまだ続いていたことがわかる。 『続日本紀』の記載を見ると、聖武天皇の病気は2年前の天平17年(745年)以来のもので、新薬師寺の建立された天平19年(747年)頃は小康状態にあったようである。『続紀』によると、天平17年(745年)9月には聖武の病気平癒のため、京師と畿内の諸寺に薬師悔過(けか)法要の実施を命じ、また諸国に「薬師仏像七躯高六尺三寸」の造立を命じている。新薬師寺の創建は、この七仏薬師造立の勅命にかかわるものとみられている。なお、別の伝承では、聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して天平17年(745年)に建立したともいう[1]。 現在(令和5年9月)、薬師如来坐像の光背の修復作業に入っており、十二神将全てを拝観は出来ない。令和5年10月2?6日に、拝観が、規制される。 前述のとおり、新薬師寺には香山薬師寺または香薬寺という別名があったことが知られるが、『正倉院文書』にはこれとは別にやはり光明皇后創建を伝える「香山寺」という寺の名が散見され、この香山寺と新薬師寺との関係についてはさまざまな説がある。 正倉院には、東大寺の寺地の範囲を示した「東大寺山堺四至図」(とうだいじさんかいしいしず)という絵図があるが、この絵図を見ると、現・新薬師寺の位置に「新薬師寺堂」、東方の春日山中に「香山堂」の存在が明記され、絵図が作成された天平勝宝8歳(756年)の時点でこの両建物が並存していたことが明らかである。福山敏男は、新薬師寺と香山薬師寺は同じ寺院の別称だとしたうえで、「山堺四至図」にみえる「香山堂」を「香山寺」と認め、香山寺は『続紀』にみえる天平17年(745年)9月の薬師悔過実施と七仏薬師造立の勅命に基づいて創建されたものとした。毛利久は、香山寺と新薬師寺は後に合併して、春日山中の香山寺は奥の院的存在になったとみなし、香山寺と香山薬師寺は同じ寺院の別称とした。 この香山寺ないし香山堂については、1966年(昭和41年)の奈良国立博物館の現地調査により、佐保川の水源地付近の尾根上に寺院跡が確認されている。
歴史創建時新薬師寺の模型(奈良市役所所蔵平城京1/1000模型の一部)
東側から見る
創建
「香山寺」と新薬師寺