新聞統制
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この項目では、1940年前後の日本の政策について説明しています。1980年の大韓民国における政策については「言論統廃合」を、その他の用法については「言論統制」をご覧ください。

新聞統制(しんぶんとうせい)は、新聞資本の統合(新聞統合)及び新聞の統制団体設置を目的として策定されたオペレーションを指す。内務省情報局を中心として運用され、1938年より始まり1942年末に完成した。統合の結果、一つの県に一つの県紙が置かれた「一県一紙」は現在までほぼそのままで維持されている。
概要

言論統制は国による言論の自由抑制を指すが、そこには消極的統制と積極的統制が存在する。検閲は前者であり、新聞統合及び統制団体設置は後者に属する[1]
戦争報道による影響

1930年ロンドン軍縮条約締結。軍部を中心に反対の声が挙がるが、各紙は条約を支持。軍部批判もまだ活発に行われていた[2]

しかし1931年蒋介石の勢力拡大などにより、ナショナリズム世論が激化したことで、各紙は軍縮から軍拡へ路線を変更[注 1]日清日露で得た満蒙権益の死守を訴えた[2]。9月18日、満州事変。12月19日、新聞各紙が連名で満州事変支持の共同宣言発表[2]。満州事変でスクープ合戦やナショナリズム世論が形成され新聞各社の売上が増加、各社は自発的に軍部を支持することにつながった[3]

これらの経緯を経て、新聞社や日本放送協会の報道は制約されはじめる。従軍報道においても取材写真は幾つもの検閲を経て、何度もふるいにかけられてようやく紙面に掲載されることになった[要出典]。また、言論統制もあって、記事にも日本に有利な情報しか掲載されなくなり、事実に反する内容も少なくなかった[要出典]。そのため、複数の「真実」が存在する、曖昧な事件が幾つかあり、現在に至るまで議論がなされている[要出典]。
新聞統合の進捗

新聞統合における一県一紙は、正確には1つの県に新聞が1つあるという意味ではない。全国紙(中央紙)と地方紙は併存していたし、全国紙、地方紙以外の新聞も存在した。つまり日本新聞博物館(横浜市)の歴史コーナーが説明しているように「日刊新聞社」が昭和12年(1937年)に1208社あったものが、昭和17年(1942年)には55社に統合されたという実相が新聞統合である。毎日刊行される日刊紙以外にも週刊紙、旬刊紙、不定期紙などの新聞は存在する。

新聞統合の過程(普通日刊紙)カテゴリ地域統合後の新聞母体
(太字の場合は当該紙が他紙を吸収)完成時期完成前地元紙
統合後部数備考
全国紙朝日新聞大阪朝日新聞東京朝日新聞1940.9.1-
3,677,336東京五紙、大阪四紙、名古屋撤退、九州存続
新聞統合以前より経営統合されていた。
毎日新聞東京日日新聞大阪毎日新聞1943.1.1-
3,245,369東京五紙、大阪四紙、名古屋撤退、九州存続
新聞統合以前より経営統合されていた。
讀賣報知[注 2]読売新聞報知新聞1942.8.5-
1,728,194東京五紙
地方紙樺太樺太新聞[注 3]樺太日日新聞、樺太時事新聞、
樺太旭新聞、樺太毎日新聞
北海道北海道新聞北海タイムス、小樽新聞★、室蘭日報
新函館、網走新報、根室新聞
北見新聞、旭川タイムス、旭川新聞
釧路新聞十勝毎日新聞1942.11.1293,390
484,5216月、知事が統合裁定案を出すが
岡村二一が来道し東季彦を社長に推薦。
青森県東奥日報東奥日報、八戸合同、弘前新聞、
青森日報、東北タイムス1942.1.138,870
63,501
岩手県新岩手日報[注 4]岩手日報、岩手國民新聞、三陸日日新聞
日刊岩手、宮古新聞、岩手日日新聞他3紙1942.1.113,300
34,713


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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