新美敏
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新美 敏エスプライド鉄腕硬式野球部 監督 #82
基本情報
国籍
日本
出身地熊本県宇土市
生年月日 (1952-08-02) 1952年8月2日(71歳)
身長
体重172 cm
79 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1972年 ドラフト1位
初出場1973年4月17日
最終出場1987年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


PL学園高等学校

日本楽器

日拓ホームフライヤーズ
日本ハムファイターズ
(1973 - 1976)

広島東洋カープ (1977 - 1987)

監督・コーチ歴


広島東洋カープ (1988 - 1991)

日本ハムファイターズ (1992 - 1994)

WIEN'94

エスプライド鉄腕

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

新美 敏(にいみ さとし、1952年8月2日 - )は、熊本県宇土市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ
経歴

PL学園高校では3年次の1970年、エース投手・5番打者として夏の甲子園に出場。田代克業(中大?本田技研)との二本柱で勝ち進み、決勝に進出するが東海大相模に敗れ準優勝に終わる。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商小川清一に投げ勝ち優勝。PL学園では同期の新井宏昌、1学年下の行澤久隆がチームメイトであった。

高校卒業後、1971年日本楽器へ入社。1972年都市対抗では池谷公二郎との二本柱で勝ち進む。決勝では三菱自動車川崎池田善吾と投げ合い完封勝ち、初優勝を飾る[1]。この大会では3回戦で三菱名古屋から大会史上3人目の毎回奪三振を記録するなど大きな注目を浴び、橋戸賞を受賞。同年の第20回アマチュア野球世界選手権日本代表、社会人ベストナインに選出される。この時の打線の主軸は榊原良行小田義人大昭和製紙から補強)、船見信幸であった。

同年のドラフト1位で日拓ホームフライヤーズに入団。

1973年多摩川で開始したバッテリー組の自主トレーニングに参加し、ランニングやダッシュの他に、首脳陣の前で初めてボールを投げてみせた[2]田宮謙次郎監督はキャッチボールをする新美を見て「ゆったり大きなフォームをしている。いいね」と顔がほころび、大器であると確信したという[2]。身長172cmとプロ野球選手としては小柄な新美に「もうちょっと背が欲しいんじゃないか?」と田宮監督は問いかけたが、新美は笑みを浮かべながらもきっぱりと「このままでいいです。小さいのが、大きい人を牛耳ったら気持ちいいじゃないですか」と言った[2]。田宮は負けん気の強さが出るところに「すぐ使えるかもしれない」と手応えを十分感じたが、オープン戦では結果が出なかった。最大の武器であるシュートをあまり投げなかったこともオープン戦が好結果ではなかった要因だったが、新美には「今見せたら、他球団に研究される。シュート解禁はペナントレースに入ってから」という計算があった[2]。田宮に見限られない程度に抑えて一軍入りし、4月17日に行われた開幕2戦目のロッテ戦(後楽園)で初登板初完封勝利を挙げた。内外角のコーナーに投げ分ける制球の良さに加え、ここ一番でウイニングショットが光った[2]。4回、ロッテの1番弘田澄男に右中間へ三塁打を打たれたが、2番ジム・ラフィーバーから4番有藤道世の主軸を凡フライに打ち取り、この3人を仕留めたボールこそ、この日のためにしまっておいたシュートであり、その回の裏に野村収から自ら先制適時打を放った新美はそのまま投げ切り、117球6安打3三振1四球で完封勝利を飾る[2]。新人投手の初登板初完封は当時プロ野球史上10人目の快挙であり、日拓の記念すべき公式戦初勝利をもたらした新美はその後も勝利を重ね、チーム最終戦となった10月16日のロッテ戦(草薙)でも勝ち投手になり、最後も締めた[2]。前後期で6勝ずつをマークしての計12勝は高橋直樹と並ぶチーム最多勝であり、先発・リリーフと獅子奮迅の活躍で54試合に登板したのもチーム最多であった[2]。投球イニング数もチーム最多である222回3/1を投げ、後期に日拓が3位に入る原動力となった新美はパ・リーグ新人王を獲得[2]。その直後に日拓はチームを日本ハムに譲渡[2]

1974年も12勝を挙げ、オールスター初出場を果たす。しかしこの年、ある日の阪急戦で福本豊に四球を与え、二盗、三盗、犠飛で失点。その後に球団の重役から「八百長やってんのか」と言われ、気持ちと共に成績も落ち込んだという[3]

1976年は先発で2度KOされた後はリリーフ起用が主となり、チーム状況からビハインド時の登板が多く活躍も限られた[4]。そのために2勝と勝ち星は少なくなってしまい、抑える試合もある反面打たれる試合も多く不完全燃焼な1年であった[4]。同年秋にはトレードの噂が飛び交い、スポーツ新聞には「巨人柴田勲と交換」と書かれた[3]。新美は中ぶらりんな心境でオフを過ごしていたが、まだ婚約者であった妻の実家で電話が鳴った[3]


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