新発田藩
[Wikipedia|▼Menu]
『天保国絵図越後国新発田村上天保9年(1838年)。国立公文書館デジタルアーカイブより。

新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた。藩庁は新発田城。藩主は溝口家家格外様大名で、石高は6万石(のち5万石 → 10万石と推移)。
概要

1598年豊臣秀吉の命を受けて、それまで越後一国を領していた上杉景勝会津に移封された後、越後は福島30万石に堀秀治、坂戸2万石に堀直寄、村上(本庄)9万石の村上義明、そして新発田の溝口秀勝といった具合に配置された。

秀勝は1600年関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の東軍に与して越後に在国し、越後で発生した上杉旧臣の一揆[1]を鎮圧した功績により、家康から本領を安堵され、新発田藩6万石が成立した。越後国譜代大名親藩のひしめく中に位置する外様大名であった。

秀勝の子・溝口宣勝の時に弟の溝口善勝に1万石を分与したため、溝口家は総石高が5万石となった。そのうえ、宣勝の子・溝口宣直の時代には3人の弟にそれぞれ分与する。なお、分家に交代寄合旗本陸奥国岩瀬郡横田領主の溝口家がある。

藩の領域は現在の新発田市の領域に加え、現在の新潟市東部・阿賀野市加茂市南蒲原郡にまで及ぶ広大なものであったが、その領域の大半を占める蒲原平野は、阿賀野川信濃川下流域に広がるその名の通り、のような水草の生い茂る低湿地帯であり、そのままでは農耕に適さない土地であった。新発田藩とその領民は代々干拓や治水に力を入れ、新田開発を進めていった。その結果、この地域は穀倉地帯となるまでに開発が進み、その収穫は石高の数値を大きく上回るまでになり、内高40万石という説もある。この地域にいくつか残る当時の豪農の邸宅の遺構からは、当時の様子がうかがわれる。

八代藩主・溝口直養が藩校・道学堂をつくったことにみられるように新発田藩主は代々学問を奨励し、城下町は繁栄した。元禄の世に4代藩主・溝口重雄が江戸から幕府お抱えの庭師である縣宗知を招いて築庭させた、京風の廻遊式庭園である清水園からは、当時の文化の繁栄ぶりがうかがわれる。

その後、11代藩主・溝口直溥の代になって、10万石への高直しを幕府に申請し、認められた。これには、家格が上がるというメリットの一方と、財政窮迫の折りの高直しはかえって過剰な加役を加えられるのではデメリットを心配する声も上がり、藩内で論争が起こった。

戊辰戦争では、新政府側よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟した。同盟側は新発田藩を参戦させようと謀り、藩主・溝口直正を人質にとろうと試みたが、新発田藩の領民の強い抵抗に遭って阻止される。その後、新発田藩は新政府軍に合流し参戦することとなり、その結果、新発田の地は戦火から守られることとなった。ただし、この時の新発田藩の行動は越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られ、周辺地域との間にしこりを残すことにもなった。

ともあれ溝口家は明治時代に至るまで、取り潰しに遭うことなく、12代にわたって新発田を統治した。
歴代藩主
溝口家
外様 最終石高10万石
溝口秀勝

溝口宣勝

溝口宣直

溝口重雄

溝口重元

溝口直治

溝口直温

溝口直養

溝口直侯

溝口直諒

溝口直溥

溝口直正 - 1884年明治17年)、華族令により伯爵

後史

溝口伯爵家[2](1919年 - 1945年 ) 
溝口直亮 - 1919年大正8年)、家督相続により伯爵を襲爵。

新発田溝口家[3](1945年 - ) 
溝口歌子 - 直亮の長女。

溝口隆雄 - 直亮の孫(母は歌子の妹・豊子)。


現当主の溝口隆雄は21世紀になっても、新発田歴代藩主の菩提寺・宝光寺での法要や豊田神社の祭礼に参加されている[4]

主な重臣の家系

溝口半左衛門(半兵衛)

溝口伊織

溝口内匠

堀丈大夫(内蔵丞)

堀主計

速水九郎右衛門(八弥)

窪田平兵衛

里村官治

里村縫殿

坂井数馬

仙石武右衛門

仙石九郎兵衛

脇本儀左衛門

宮北郷左衛門

服部市郎左衛門

佐治藤右衛門

家臣団の形成

溝口秀勝丹羽長秀に仕え、天正9年(1581年)、若狭国高浜城主5000石を給される。それ以前からの家臣は、槍持ちを務め、60石を給されていた入江九左衛門と、天正5年に配下に加わった近江国浅井郡速水郷出身の速水三右衛門が最古参の家臣。高浜城主になると、旧領主逸見駿河守の遺臣、香川民部、寺井主馬を配下に加える。天正10年、織田信長が滅ぼされるとその遺臣、加藤清重、坂井式部(数馬の祖)を配下とする。加藤家は後に溝口氏を賜り、溝口内匠家の祖となる。この他、高浜時代に仕官した者は、柿本蔵人、窪田与左衛門、大津、三宅、中西らがいる。窪田与左衛門家は元禄9年に断絶するが、分家の窪田平兵衛家がのちに家老を務める家系となる。天正12年、堀秀政の与力として加賀大聖寺四万四千石の領主となると、柴田勝家の遺臣、丹羽秀綱(四郎兵衛の祖)、脇本仁兵衛を配下とする。

慶長3年(1598年)、堀秀治とともに越後へ移封、新発田藩6万石の領主となると、会津藩の旧領主蒲生家の遺臣、森、奥村、矢代、熊田らを配下とする。彼らは会津衆と呼ばれた。慶長15年、堀家が除封され、堀忠俊堀直清が配流されると、直清の六男主馬助直正(堀丈大夫の祖)を招き入れる。

元和元年(1616年)、大坂の陣が起こり、落人となった母子を迎え入れ、南部次左衛門の養子とする。同じく落人の土橋弥太郎を迎え入れる。土橋家は後に溝口姓を与えられ、溝口伊織家の祖となる。元和4年、村上周防守が跡継ぎなく除封となると、その遺臣、下長門守本国を迎え入れる。下家は、越後国奥山庄(その中でも関川村の辺り)の中世からの国人領主の家柄で、本国の父の代から上杉家の家臣として庄内の代官を勤め、そののち最上義光に仕え、のち村上周防守に仕えていた。

寛永4年(1627年)、会津の蒲生忠郷が除封されると、その遺臣、寺尾、仙石らを迎え入れる。寛永19年、村上堀家が断絶すると、堀主計直浄、河村、大岡らを迎え入れる。主計直浄は堀直清の次男で、主馬助直正の兄に当たる。正保元年(1645年)、会津の加藤明成が没すると、その遺臣、佐治、君、七里、梅原、赤佐らが加わる。

そのほかにも、徳川忠長松平直矩村上藩時代)、細川忠興福岡藩島原藩、会津藩、米沢藩などから、仕官変えしてきたものもいた。徳川忠長が改易されると、堀三政が来藩、堀勘兵衛、堀善大夫の祖となる。細川家から高久、黒田家から里村、村上藩の松平家から宮北、米沢から山庄、島原から高力隆長の遺臣、板倉、渡辺、小野寺らが新発田藩へやってきた。

以上に挙げられた氏は物頭(武頭)以上の家系で、家老、城代、用人、組頭、奉行などの役職も勤めた。

(以上[5]
新発田藩の戊辰戦争


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:70 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef