新発田県
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『天保国絵図越後国新発田村上天保9年(1838年)。国立公文書館デジタルアーカイブより。

新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた。藩庁は新発田城。藩主は溝口家家格外様大名で、石高は6万石(のち5万石 → 10万石と推移)。
概要

1598年豊臣秀吉の命を受けて、それまで越後一国を領していた上杉景勝会津に移封された後、越後は福島30万石に堀秀治、坂戸2万石に堀直寄、村上(本庄)9万石の村上義明、そして新発田の溝口秀勝といった具合に配置された。

秀勝は1600年関ヶ原の戦いのとき、徳川家康の東軍に与して越後に在国し、越後で発生した上杉旧臣の一揆[1]を鎮圧した功績により、家康から本領を安堵され、新発田藩6万石が成立した。越後国譜代大名親藩のひしめく中に位置する外様大名であった。

秀勝の子・溝口宣勝の時に弟の溝口善勝に1万石を分与したため、溝口家は総石高が5万石となった。そのうえ、宣勝の子・溝口宣直の時代には3人の弟にそれぞれ分与する。なお、分家に交代寄合旗本陸奥国岩瀬郡横田領主の溝口家がある。

藩の領域は現在の新発田市の領域に加え、現在の新潟市東部・阿賀野市加茂市南蒲原郡にまで及ぶ広大なものであったが、その領域の大半を占める蒲原平野は、阿賀野川信濃川下流域に広がるその名の通り、のような水草の生い茂る低湿地帯であり、そのままでは農耕に適さない土地であった。新発田藩とその領民は代々干拓や治水に力を入れ、新田開発を進めていった。その結果、この地域は穀倉地帯となるまでに開発が進み、その収穫は石高の数値を大きく上回るまでになり、内高40万石という説もある。この地域にいくつか残る当時の豪農の邸宅の遺構からは、当時の様子がうかがわれる。

八代藩主・溝口直養が藩校・道学堂をつくったことにみられるように新発田藩主は代々学問を奨励し、城下町は繁栄した。元禄の世に4代藩主・溝口重雄が江戸から幕府お抱えの庭師である縣宗知を招いて築庭させた、京風の廻遊式庭園である清水園からは、当時の文化の繁栄ぶりがうかがわれる。

その後、11代藩主・溝口直溥の代になって、10万石への高直しを幕府に申請し、認められた。これには、家格が上がるというメリットの一方と、財政窮迫の折りの高直しはかえって過剰な加役を加えられるのではデメリットを心配する声も上がり、藩内で論争が起こった。

戊辰戦争では、新政府側よりの立場をとろうとするも、周辺諸藩の奥羽越列藩同盟の圧力に抗しきれず、やむなく加盟した。同盟側は新発田藩を参戦させようと謀り、藩主・溝口直正を人質にとろうと試みたが、新発田藩の領民の強い抵抗に遭って阻止される。その後、新発田藩は新政府軍に合流し参戦することとなり、その結果、新発田の地は戦火から守られることとなった。ただし、この時の新発田藩の行動は越後長岡藩などからは明らかな裏切り行為と見られ、周辺地域との間にしこりを残すことにもなった。

ともあれ溝口家は明治時代に至るまで、取り潰しに遭うことなく、12代にわたって新発田を統治した。
歴代藩主
溝口家
外様 最終石高10万石
溝口秀勝

溝口宣勝

溝口宣直

溝口重雄

溝口重元

溝口直治

溝口直温

溝口直養

溝口直侯

溝口直諒

溝口直溥

溝口直正 - 1884年明治17年)、華族令により伯爵

後史

溝口伯爵家[2](1919年 - 1945年 ) 
溝口直亮 - 1919年大正8年)、家督相続により伯爵を襲爵。

新発田溝口家[3](1945年 - ) 
溝口歌子 - 直亮の長女。

溝口隆雄 - 直亮の孫(母は歌子の妹・豊子)。


現当主の溝口隆雄は21世紀になっても、新発田歴代藩主の菩提寺・宝光寺での法要や豊田神社の祭礼に参加されている[4]

主な重臣の家系

溝口半左衛門(半兵衛)

溝口伊織

溝口内匠

堀丈大夫(内蔵丞)

堀主計

速水九郎右衛門(八弥)

窪田平兵衛

里村官治

里村縫殿

坂井数馬

仙石武右衛門

仙石九郎兵衛

脇本儀左衛門

宮北郷左衛門

服部市郎左衛門

佐治藤右衛門

家臣団の形成

溝口秀勝丹羽長秀に仕え、天正9年(1581年)、若狭国高浜城主5000石を給される。


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