logo新発田城
(新潟県)
二の丸隅櫓(国の重要文化財)と石垣、堀
別名菖蒲城・舟形城
城郭構造平城
天守構造御三階櫓複合式層塔型3重3階(1679年(延宝7年) 再・非現存)
(木造復元・2004年(平成16年) 再)
築城主(新発田氏)
主な改修者溝口秀勝
主な城主新発田氏 溝口氏
廃城年1873年(明治6年)
遺構櫓・長屋・門、石垣、土塁、堀
指定文化財国の重要文化財(表門、二の丸隅櫓)
再建造物三階櫓、辰巳櫓
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度57分19.68秒 東経139度19分31.47秒 / 北緯37.9554667度 東経139.3254083度 / 37.9554667; 139.3254083
新発田城(しばたじょう)は、越後国蒲原郡新発田[1](現在の新潟県新発田市大手町)にあった日本の城。別名、菖蒲城(あやめじょう)。新発田藩の藩庁が置かれていた。 城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城であり、本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、その南側に三の丸を配する構造であった。現在は本丸の一部を除く全域と古丸全域、二の丸の一部が自衛隊駐屯地として利用され、本丸南側の石垣と堀、櫓門の本丸表門と二重櫓の二の丸隅櫓が現存。現存建築がある城跡としては新潟県内では唯一である[2]。ほかに三階櫓や二重櫓の復元建築がある。また、石垣は本丸の表門側のみに前面乱積みの石垣がもちいられ、他は腰巻石垣や土居であったと考えられている。しかし寛文9(1669)年の大地震により、石垣が崩落しその復旧工事で、切込接布積に改められたとされる[3]。 最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが、天正9年(1581年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を起こした(新発田重家の乱)。天正15年(1587年)、景勝方の攻勢により新発田城は落城。大名としての新発田氏は滅亡した[4]。 その後上杉氏の会津転封に伴い、慶長2年(1597年)、溝口秀勝が6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。城が完全な形となったのは承応3年(1654年)、3代宣直の時代といわれる。その後寛文8年(1668年)、享保4年(1719年)に火災によって城内建築に大きな被害を受けるが、その度に再建されている。 鎮台制の施行にあたり、政府は東京鎮台第1営所に新潟を選定し、歩兵第8大隊を配備することにした。しかし城下町ではない新潟には部隊を容れられる施設がなかったため、しばらく新発田城を営所とした。新発田城が臨時の営所として使われたのは明治4年(1871年)11月から新潟営所が完成し部隊が移転した明治5年(1872年)11月までである[5]。明治6年(1873年)2月にいったんは廃城が決まったが[6]、新潟営所が不適という理由で部隊不在のまま陸軍省管轄にとどめられた[7]。結局1874年(明治7年)に歩兵第8大隊は新潟を引き払って高崎(現在の群馬県)に移ることになり、その一部である第2中隊が新発田城に入った。第2中隊は同年11月に歩兵第3連隊の第2大隊となり、この第2大隊が1884年(明治17年)6月に歩兵第16連隊に拡充し、敗戦まで新発田の郷土部隊となった[8]。 長年に渡って城郭の復元を住民等に望まれ、近年より、明治初頭に撮影された古写真などを資料として考証・設計された在来の伝統的手法による復元の計画が進められ、2004年(平成16年)に三階櫓と辰巳櫓が復元され、辰巳櫓のみ、同年7月から一般公開されている。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(31番)に選定された。 櫓の外壁には冬季の積雪への対策の意味もあり、海鼠壁(なまこかべ[9])が用いられていた。その他の塀や一部の櫓門には、下見板が張られていた。『正保城絵図』では屋根は茅葺となっている。
概要
歴史・沿革
近代以前
近現代
建築辰巳櫓(復元)
三階櫓
天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。幕府に遠慮し天守を公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。承応3年(1654年)に創建されたものは、寛文8年(1668年)の火災により焼失し、現在復元されている姿のものは延宝7年(1679年)に再建されたものである。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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