新町遊廓
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この項目では、大阪市にあった遊廓について説明しています。日本統治時代の台湾の遊廓については「新町遊廓 (台南市)」をご覧ください。

新町遊廓(しんまちゆうかく)は、大坂で唯一江戸幕府公認だった遊廓花街)。現在の大阪府大阪市西区新町1丁目・同2丁目に存在した。
概要新町遊廓 紋章

大坂夏の陣の翌年、1616年元和2年)に伏見町浪人とされる木村又次郎が江戸幕府に遊廓の設置を願い出た。候補地となった西成郡下難波村の集落を道頓堀川以南へ移転させ、1627年寛永4年)に新しく町割をして市中に散在していた遊女屋を集約し、遊廓が設置された。

メインストリートとなる瓢箪町(ひょうたんまち)には島之内道頓堀から、1筋北の新京橋町(しんきょうばしちょう)と新堀町(しんぼりちょう)には阿波座から、1筋南の佐渡島町(さどじまちょう)には上博労町(現・新町4丁目の木津川沿い)から、2筋南の吉原町(よしわらちょう)には葭原(天満北部)から遊女屋が移転してきた。なお、遊廓の長となった木村又次郎が木村重成乳母の子で、瓢箪馬印を所持していたことが瓢箪町の町名の由来となっている。

新しく拓かれた地域の総称であった新町が遊廓の名称となり、城下の西に位置することからニシや西廓とも呼ばれた。17世紀後半には上記の五曲輪(くるわ)構成が定着し、新町五曲輪年寄が遊廓を支配下においた。なお、名称は新町五曲輪年寄だが支配下の町の数は7町で、揚屋町となる九軒町(くけんちょう)と、佐渡屋忠兵衛という高麗橋から移住してきた町人の屋敷1軒のみを町域とする佐渡屋町(さどやまち)の2町が新堀町の西に位置していた。随所に見返り柳が植えられていた。

廓内となる上記の7町は溝渠で囲まれていたが、その幅は狭く、東側のみ板塀が設けられただけであった。出入口となる門は、当初は瓢箪町の西端に設置された西大門のみであったが、1657年明暦3年)に瓢箪町の東端にも東大門が設置された。1668年寛文8年)には普段は閉じたままの5つの非常門が設置されたが、後に普段から開け放たれるようになる。1672年(寛文12年)には船場からの便宜をはかって西横堀川に新町橋が架橋された。新町橋の架橋と同年には、京の島原から夕霧太夫を抱える置屋の扇屋が瓢箪町へ移転して来た。夕霧太夫は1678年延宝6年)に短い生涯を終え、下寺町の浄国寺に葬られたが、後世まで名妓として語り継がれている。

5つの非常門は1724年享保9年)に発生した享保の大火(妙知焼け)を機に、同年から吉原町門が、1754年宝暦4年)から新京橋町門と佐渡島町東門が、1786年天明6年)から佐渡屋町門と佐渡島町西門がそれぞれ普段から開け放たれるようになった[1]。メインストリートの瓢箪町を経由せずに直接各町へ出入りできる門が開け放たれたことは、廓内の店舗(女郎屋・揚屋・茶屋)や妓品(太夫・天神・鹿子位・端女郎)の分布に大きな変容をもたらした[2]

溝渠の外側は東に西横堀川、北に立売堀川、南に長堀川が近接する地勢であるため、隔離度が高いように見えるが、各堀川の内側にも市街が広がり、架橋も十分になされており、東隣は大坂城下の中心となる船場である。三大遊廓において、門が7つもあり、東側のみ板塀を設け、市街の中に位置する新町は、門が2つしかなく、周囲を土塀で囲まれ、市街の端に位置する島原や、門が1つしかなく、周囲を塀と田畑に囲まれて市街から隔離された江戸吉原と大きく異なっており、隔離度は最も低いものになっていた。佐渡島町西門外のあたりは「砂場」と称され、ここには和泉屋・津国屋といった砂場系列の蕎麦屋があった[3]

新町遊廓には元禄年間には800名を超える遊女太夫など)がいたことが確認されており、明治初頭まで繁栄した。
明治以降新町演舞場(旧・大阪屋本社社屋)


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