新田金山
太田市役所より望む
標高235.8 m
所在地 日本 群馬県太田市
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度19分03秒 東経139度22分40秒 / 北緯36.31750度 東経139.37778度 / 36.31750; 139.37778
金山(かなやま)は、群馬県太田市金山町にあり八王子丘陵の東南にある標高235.8mの独立峰である。別名「太田金山」。ぐんま百名山に選定されている[1]。
山頂には「新田神社」や「金山城(国の史跡)」があり、足尾山塊、赤城山、榛名山、浅間山、富士山、筑波山、秩父連山らが眺望できる [2][3] 。南側下に太田市街地、北側下に北関東自動車道と同自動車道の太田桐生IC、東側下にイオンモール太田、西側下にはぐんまこどもの国が見え、さらには桐生市、邑楽郡大泉町、埼玉県熊谷市、栃木県足利市まで見渡すことができる。麓には「子育て呑龍」で親しまれている大光院がある。 万葉集に「新田山」として次の二歌が詠まれている[4]。 金山丘陵北東部から八王子丘陵南端にかけて須恵器及び瓦の窯跡群があり、亀山窯跡、辻小屋窯跡、八幡窯跡をはじめ6世紀後半から7世紀後半の窯跡支群が確認されている[5]。推定された数は12ヵ所で、関東地方の古墳時代窯跡群の中では最大のもので、9世紀後半までの存続が認められている[5]。 金山の名は室町期から見える地名であり、1404年(応永11年)9月の『村田郷地検目録(正木文書)』に「一所、金山御神田」の記述があり、当地が信仰の対象になったことがわかる[6]。その後、金山城として名を成していく(詳細は新田金山城を参考)。 1926年(大正15年)、本島、大島、武川、成田、渋沢他地元太田町(当時)の有志十数人が「金龍寺公園-金山山頂間」800mを結ぶ「太田鋼索鉄道株式会社」(資本金20万円)を設立。計画書を国に申請し1927年(昭和2年)に許可されたものの1929年(昭和4年)6月6日の工事指定日になっても着工しなかったため失効となり免許が取り消されたことがある[7][8][9]。1934年(昭和9年)には、山麓橋から頂上まで自動車開削計画を立てたが実現せず[7][10]、戦後計画を一部変更して完成した。また1937年(昭和12年)には、金山の実城(じつしろ)山と相対する大八王子山200尺余りの仏像建立を計画したが、戦争のため立ち消えになった[11][7]。1947年に制定された 上毛かるたでは「お・太田金山子育て呑龍」の名で知られるようになった。 1970年代になると、日本オリエンテーリング協会のパーマネントコースに指定されている[12]。 金山は八王子丘陵等とともに、足尾山地から渡良瀬川の断層によって切り離された分離丘陵群のひとつと考えられている。
歴史
「新田山(にひたやま) 嶺(ね)には着かなな 吾(わ)によそり 間(はし)なる児らし あやに愛(かな)しも」(巻14-3408)
「白遠(しらとほ)ふ 小新田山(をにひたやま)の 守(も)る山の 末(うら)枯(が)れ為(せ)なな 常葉(とこは)にもがも」(巻14-3436)
地形
地質