新田荘遺跡
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新田荘遺跡(にったのしょういせき)は、上野国新田郡群馬県太田市)にあった荘園新田荘に関わる遺跡。荘域は上野国新田郡全域・勢多郡佐位郡武蔵国榛沢郡の一部に及び、おもに大間々扇状地利根川左岸氾濫原からなる[1]。『延喜式』には上野国新田駅、『和名類聚抄』では新田郡駅家郷と記されている。中世武士団新田氏一族の根源地として成立し、長楽寺文書、正木文書によって文献史料の裏付けを可能とする東国の中世荘園として稀有な例である。2000年(平成12年)、新田氏遺構群のうち11箇所が国の史跡に指定され、「新田荘遺跡」として保存されている。
新田荘の歴史

律令制下の郡として平安時代中期の承平年間(931年 - 938年)に作成された倭名抄に「新田郡」および東山道武蔵路も含む)のとして「新田駅」が記載される。

1108年(天仁元年)の浅間山天仁大噴火によって火山灰(浅間Bテフラ)が降下して北関東一帯が荒廃。

1142年(康治元年)- 源義国足利荘立券。

1143年(康治2年)- 源義国、簗田御厨立券。

1150年(久安6年)- 源義国、右近衛大将大炊御門藤原実能と争い、実能の屋敷を焼き払い勅勘を蒙り、源義国は下野国足利の別業に隠退する。

この後、源義国は長子・新田義重とともに上野国新田郡の開発を開始する。源義国・新田義重父子の開発過程で近隣の藤姓足利氏との間で相論が活発化していく。

1155年(久寿2年)- 源義国が新田郡内の新田義重館にて死去。

1157年(保元2年)- 源義国・義重父子によって開発された「空閑の郷々」19郷が本家鳥羽院御願寺金剛心院領家藤原氏北家花山院流藤原忠雅寄進され、新田荘が立券。同年、藤原忠雅により新田義重が新田荘下司職に補任される。

1170年(嘉応2年)- 新田荘域が新田郡全郡56郷に拡大。

1172年(承安2年)- 新田義重、嫡子である新田義兼へ所領を譲渡。同年、新田義重、隣接する園田御厨と紛争を起こす。

1193年(建久4年)- 源頼朝、新田義重館へ遊覧。

1215年(建保3年)- 新田尼、新田荘内3郷の地頭職に、岩松時兼、同12郷の地頭職に補任される。

1205年(元久2年)- 新田義兼が源実朝より村田[2]・田嶋[2]・中今井・一井・田中[3]・堀口[2]・多古宇[3]・綿打・千歳[2]・薮塚[2]・上女塚[3]・高嶋[2]の12郷の地頭職に補任される。

1221年(承久3年)- 世良田義季が開山に栄朝を招いて世良田長楽寺を開基。

1226年(嘉禄2年)- 岩松時兼、岩松郷の地頭職に補任される。

1244年(寛元2年)- 新田政義が京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で御家人役を剥奪される。新田氏惣領職[4]は没収され、世良田頼氏に与えられる。世良田氏とともに新田荘半分領家職は岩松氏が分担する。[5]

1246年(寛元4年)- 世良田義季、女塚郷を長楽寺に寄進。

1268年(文永9年)- 得川頼有、岩松経兼の嫡子・亀王丸(岩松政経)を養子とし、所領を譲渡。

1272年(文永9年)- 世良田頼氏が二月騒動に連座し佐渡国へ流罪となり、新田氏惣領職(世良田氏分)は新田氏本宗家(新田政氏)へ遷移する。

二月騒動を契機として新田荘内に得宗領が拡大していった。

1277年(建治3年)- 世良田頼氏の娘「尼浄院」、上江田郷内堂垣内在家・田を長楽寺へ寄進。

1291年(正応4年)- 鎌倉幕府鳥山時成の遺領相続を妻「尼念空」に認める。

1318年(文保2年)- 由良景長の妻紀氏に鎌倉幕府は上野国新田荘の田地を領せしむ。新田義貞が新田氏本宗家家督相続する。新田義貞・村田頼親が所領を長楽寺へ売却。

1322年(元亨2年)- 岩松政経・大舘宗氏が新田荘田嶋郷の用水相論。「尼浄院」、亡父忌日料として南女塚村内在家を長楽寺へ寄進。

1324年(元亨4年)- 新田義貞、所領を小此木盛光妻紀氏へ売却。


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