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出典検索?: "新田義貞"
凡例新田 義貞
新田義貞像(藤島神社蔵)
狩野探幽原画 小川破笠写[注釈 1]
時代鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕正安3年(1301年)
死没延元3年/建武5年閏7月2日(1338年8月17日)
別名小太郎(通称)[2]、孫太郎[2]
戒名源光院殿義貞覺阿彌陀佛尊位
金龍寺殿眞山良悟大禅定門
墓所福井県坂井市丸岡町長崎の称念寺
茨城県龍ケ崎市若柴町の金竜寺
官位正四位下、左馬助、上野守、播磨守、越後守、左衛門佐、左兵衛督、左近衛中将
贈正二位、大納言のち正一位
幕府鎌倉幕府→建武の新政
主君北条高時→後醍醐天皇
氏族河内源氏義国流新田氏
父母父:新田朝氏、母:不詳
兄弟義貞、脇屋義助、大舘宗氏室
妻小田真知女[注釈 2]、天野民部橘時宣女ほか
子義顕、義興、義宗、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}式部権少輔貞員[要出典]、式部権少輔義冬[要出典]、娘(千葉氏胤室)、嶋田義央(義峰)[注釈 3]、娘(井上頼国室)、熊谷貞直?
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新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。建武の元勲の1人。
概要[ソースを編集]
上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 - 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。
後醍醐天皇による建武の新政樹立の立役者の一人となった[3]。しかし、建武の新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し[4]、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した[3]。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった[5]。
軍記物語『太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。
生涯[ソースを編集]
元弘の乱以前[ソースを編集]
出生と元服[ソースを編集]新田義貞誕生地碑
(誕生候補地の1つの群馬県太田市由良町)
新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれた。義貞の生年については判然としていない[6]。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ[7]、生年は正安3年(1301年)前後と考えられている[2]。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は弟・脇屋義助との関係から39歳没説を採用している[8]。
また、『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が同族の里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている[9][2]。
義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある[10]。また、近年では「新田氏本宗家」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』によって作り出されたフィクションであり、新田家は創設(初代新田義重)以来、足利家を宗家とする庶家の1つに過ぎなかったとする谷口雄太の見解も出されている[11][12]。