声優の「新田恵海」あるいはAV女優の「新田恵美」とは別人です。
にった えり
新田 恵利
本名長山 恵利(ながやま えり)
生年月日 (1968-03-17) 1968年3月17日(55歳)
出生地 日本 埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)[1]
血液型O型
ジャンルアイドル歌謡曲、タレント
活動期間1985年 - 1990年、1993年 -
事務所株式会社こよみ
新田 恵利(にった えり、1968年3月17日 - )は、日本の歌手、タレント、エッセイスト[2]、淑徳大学総合福祉学部客員教授[3]。80年代アイドル。株式会社こよみ所属。1985年におニャン子クラブの会員番号4番としてデビューした。ソロ歌手としても活動し、デビュー曲「冬のオペラグラス」が代表曲として有名[4]。
上福岡市立第一中学校(現・ふじみ野市立福岡中学校)→埼玉県立福岡高等学校卒業[2]。 1985年2月、深夜バラエティ番組『オールナイトフジ』の特別版『オールナイトフジ女子高生スペシャル』に出演。同番組に出演した者の多くが4月から始まる新番組のアシスタント(のちに「おニャン子クラブ」の立ち上げメンバー)に抜擢された[5]。 1985年4月、おニャン子クラブ会員番号4番としてフジテレビ『夕やけニャンニャン』(以下、『夕ニャン』)に出演[1]。同年7月、おニャン子クラブのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」でフロントメンバーに選ばれ、以降おニャン子クラブの「顔」として人気を博す。高校卒業後(当時は高校3年生)もタレント活動を続ける意向をスタッフに伝え、芸能事務所「ボンド企画」に所属。 1986年1月1日、シングル「冬のオペラグラス」でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録する。目が「ヘ」の字になるような笑顔が「100万ドル」と評され、シングルのジャケットをあしらったノベルティ「新田トランプ」は破格の値段で取引された。以降も定期的にシングル、アルバムを発売する。 1986年9月、『夕ニャン』とおニャン子クラブを卒業[1]。その際ラストシングル(本人作詞)、ラストアルバムの発売、ラストコンサート(ビデオ化されている)、テレビ出演などさまざまなかたちでスタッフやファンに見送られる。 1993年6月にテレビドラマ『映画みたいな恋したい』出演、9月に写真集『吐息を奪って』を出版。芸能活動再開となる。1995年に初のエッセイ本『これじゃあ結婚できないわ…』を出版。 1996年(平成8年)8月8日、『フジテレビの日』(8が3つそろった日でお台場へフジテレビが移転する直前)に1日だけ『復活夕やけニャンニャン』として番組が復活。そのイベント担当だったフジテレビ社員と同年結婚した。 その後は女優、作家・エッセイストとして文筆活動を行っているほか、東京のコミュニティFM局「Ginza'RADIOCITY」のパーソナリティーとしても活動している。 2002年にはおニャン子クラブが一時的に再結成し、初期メンバーを中心に新曲「ショーミキゲン」をリリースしている[1]。また、同年12月5日放送の『2002FNS歌謡祭』では「ショーミキゲン」「セーラー服を脱がさないで」を後期メンバーを含み熱唱している。 2007年、福岡県嘉麻市にたけし軍団の井手らっきょが中心となって発足した誕生した硬式野球クラブ「嘉麻市バーニングヒーローズ」の応援団を務める。 2010年、サントリー「ボス 贅沢微糖」テレビCM第8弾「贅沢銀行」篇でおニャン子クラブの限定復活に参加。同時期から在籍時には犬猿の仲といわれた国生さゆりともテレビ番組で共演する機会が増え、7月9日、有楽町のディスコ「クラブディアナ」で同じステージに立ち、新ユニット結成を約束した。 2010年より、手製のアクセサリーやテディベアなどを販売するインターネットショップ「EriS」を展開。 2011年7月、初の小説『アイドルとつきあう方法』を出版。 2016年6月15日、2013年に出演したテレビ番組で発見した脳動脈瘤の手術を行い、6月18日に退院。翌日には仕事復帰[6]。 2019年1月より、日刊ゲンダイ連載企画「夢と残酷の1980年代芸能史」でおニャン子及びアイドル時代の状況や、芸能界の実情を語っている[7]。
来歴
このころから布川敏和、堀ちえみなどのように「当時の裏話を語る80年代アイドル」としてテレビ出演する機会も増える。