新生駒トンネル
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出典検索?: "生駒トンネル" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2010年8月)

生駒トンネル(いこまトンネル)とは、大阪府東大阪市奈良県生駒市の境にある生駒山を東西に貫く、近畿日本鉄道けいはんな線新石切駅 - 生駒駅間にある鉄道トンネル(全長4,737m)、およびかつて同社奈良線孔舎衛坂駅 - 生駒駅間にあった鉄道トンネル(全長3,388 m)である。

奈良線の生駒トンネルは新生駒トンネル(全長3,494 m)の開通により1964年に鉄道トンネルとしての使用を終えた。その後、奈良線の旧トンネルを一部再利用する形でけいはんな線の生駒トンネルが1986年に開通している。西日本旅客鉄道(JR西日本)の関西本線大和路線)や片町線(学研都市線)などは生駒山地を迂回する一方、近鉄のドル箱路線である奈良線はこのトンネルによって生駒山地の中腹を貫き、大阪市奈良市を一直線で結んでいる[1]

本項ではこれら新旧の生駒トンネルに加え、奈良線の新生駒トンネルについても扱う。
奈良線 旧生駒トンネル1914年に開業した頃の旧生駒トンネル旧生駒トンネルの大阪側坑口(1991年)

奈良線の旧生駒トンネルは1914年(大正3年)に、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)により開通した。開通当時は中央本線笹子トンネル(4,656m)に次いで日本2番目の長さであり、また日本初の標準軌複線トンネルであった。

現・奈良線の生駒山越えルートは、計画段階では以下の4案があった。
暗峠沿いに線路を敷設し、「鋼鋼(こうこう)線釣瓶(つるべ)式」と称されたケーブル式を採用する。

生駒山地を北に向かい、北河内郡四條村(現:大東市)で山嶺を越え、さらに南進して斜めに東麓を下り、生駒谷を渡って富雄村丘陵を経過する約16.0km。

生駒山西麓の善根寺谷で約2.2kmのトンネルを掘削し、東麓に出て斜めに生駒谷を下り、富雄村丘陵を経過する約14.5km。

生駒山脈西麓の縄手村から孔舎衛村までを上り勾配で通し、孔舎衛から北生駒村谷田までを3.3kmのトンネルで結ぶルート。(実際の採用ルート)

1.は、線路車体等特殊の設備を必要とし、平坦部との連絡で、乗客に不快・不便を与える。2.3.は遠回りのルートであるなどの問題がある。結果的に、勾配が緩く、運転時間が短く、競合線敷設の余地を排除できる4.が選定された。1910年(明治43年)11月21日の大軌役員会で最終決定された。

生駒トンネル(当時の名称は「生駒隧道」)は、1911年(明治44年)6月1日に掘削工事に着手し、同月19日に大林組と正式に請負契約を締結した。当初は手掘りで開始されたが、その後は送電設備が完成し、削岩機が導入された。
朝鮮人労働者への虐待

小説家住井すゑが、小説『橋のない川』(はしのないかわ)著作のために取材した、生駒地域の証言者たちにより、生駒トンネルの建設には、約一千人の朝鮮からの労働者が徴用された事実が明らかとなった。1911年(明治44年)6月1日に掘削工事に着手した時点で、『大林組』は経営難に陥っていた。当然ながら、朝鮮人労働者への待遇は酷かったと言われる。そちらを証明することが、1913年(大正2年)1月26日に発生した落盤事故である。約150人が生き埋めとなり、19人の犠牲者が出た。生駒トンネル作業員の大多数は、朝鮮人労働者であった。作業員たちは負傷者に対し、治療を受けさせることを抗議したが、『大林組』はその抗議を握り潰し、早くも工事を再開した。その際、死亡人の遺体を置いたまま作業を着手したと言われる。

住井氏は、生駒トンネルで多くの朝鮮人労働者が虐待されたと主張した。しかし、その主張に対して『大林組』は、生駒トンネルに朝鮮人労働者を徴用したことを否定した。
新聞記事に見る朝鮮人労働者

朝鮮人労働者の動向が報じられた最初の記事は、1912年9月1日付の「奈良朝報」である[2]。わずか数行の記事から旧生駒トンネルに朝鮮人労働者が就労していた事実がわかるが、今では考えられないような些細な逃亡事件が記事として扱われていることは、朝鮮人労働者がすでに監視の対象となっていたことを示している。

「北倭村谷田の大軌(大阪電気軌道一編者注)生駒山トンネル工事で数日前より工夫として伊藤留吉の飯場に稼ぎ居たる朝鮮人中野武雄こと、全羅南道木浦生まれ尹泰辯(28)が6日午前3時から12時頃までの間に同工事場を逃走して行衛不明になりたり。同人は法被股引等内地人同様の土方風体を為し居れりと」

1913年1月26日午後、トンネル内部で大落盤事故が発生。労働者150人前後が閉じこめられ、20人(西教寺過去帳による)が犠牲になった。生埋めになった労働者救出のために救援隊が組織されたが、第2次救援隊の中に朝鮮人李申伊がいたことを1913年1月29日付の「大阪新報」が報じている。

1913年8月19日付の「大阪朝日新聞」には、トンネル工事の労働者と村民とが池の魚をめぐって大喧嘩をした記事がある。


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