新燃岳
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この項目では、火山について説明しています。競走馬については「シンモエダケ」をご覧ください。

新燃岳
韓国岳山頂から見た新燃岳火口(2017年1月)
標高1,420.77[1] m
所在地 日本鹿児島県
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度54分34秒 東経130度53分11秒 / 北緯31.90944度 東経130.88639度 / 31.90944; 130.88639座標: 北緯31度54分34秒 東経130度53分11秒 / 北緯31.90944度 東経130.88639度 / 31.90944; 130.88639
山系霧島山 (霧島火山群)
種類成層火山
最新噴火2018年(平成30年)
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}新燃岳の位置

新燃岳 - 地理院地図

新燃岳 - Google マップ

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プロジェクト 山
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霧島火山群における新燃岳火山の位置

新燃岳(しんもえだけ)は、九州南部の霧島山中央部に位置し、有史以降も噴火を繰り返している標高1,421m活火山である。三等三角点は山頂のカルデラ縁にあり、噴火口およびカルデラは鹿児島県霧島市域に位置する[1]。尾根筋は宮崎県小林市にまたがる。
概要

霧島山最高峰である韓国岳と霧島山東部に聳える霊峰高千穂峰の中間付近に位置し、獅子戸岳と中岳の間に割り込むようにして聳えるなだらかな円錐台形の火山であり、山頂に直径750mの円形火口を有する。火口底には平成噴火前まで直径150メートル (m)、水深30mの青緑色を呈する火口湖の新燃池が存在していた。地質は輝石安山岩からなる基盤山体の上に火砕丘が重なった構造となっている。

火口壁の南側に2つの岩峰が屹立しており、「兎の耳」と呼ばれている。山域は1934年昭和9年)3月16日に、霧島屋久国立公園の特別保護区域に指定されている[2]

平成噴火前まで高千穂河原から中岳を経由した登山道が整備され、山頂付近の植生はススキを中心とした草原となっており、所々に低木のミヤマキリシマ群生地が散在していた。当時も火山活動によってしばしば登山禁止の措置がとられる。
噴火史

便宜上10万年前よりも古い時代を古期活動期、10万年より新しい時代を新期活動期として分けている[3]。古期の活動として、霧島火山群の韓国岳などと共に約15万年前の活動で形成され、数万年の休止期間を経た約6万年前頃に活動を再開したと考えられる[3][4]。新燃岳としては約1万年前に山体形成が始まり、約5600年前、約4500年前、約2300年前にもプリニー式噴火があり周辺に噴出物を堆積させている[4]。有史以降の活動は、1716年に始まった。
享保噴火

1716 - 1717年の一連の噴火活動は水蒸気爆発に始まりマグマ水蒸気爆発からマグマ噴火へと変化し断続的に約1年半続いた[5]。火砕物降下によるマグマ噴出量は0.07DREkm3火山爆発指数:VEI4[6]
享保年間の活動は、第1期(1716年4月10日,5月7日)、第2期(9月26日)、第3期(11月9日)、第4期(12月)、第5期(1717年2月)、第6期(3月から4月?)、第7期(9月6日)の7期に分けられる。この一連の活動では第3期において最大の人的経済的被害を生じ、死者5名、負傷者31名、神社・仏閣焼失、焼失家屋600余軒、牛馬405頭死などの記録が残っている。

1716年

4月10日 小規模な噴火。

9月26日 山麓へ初めての降灰

3月11日(正徳6年2月18日)、大音響とともに水蒸気爆発が発生し、黒煙が高さ3,000mに達した[7]。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}新燃岳東方を流れる高崎川では泥流が発生している[要出典]。

11月9日(享保元年9月26日)
夜半から噴火が始まった。周囲に数ヶ所の火口が形成され火砕流が発生し、付近の山林に火災が広る。負傷者は31名、焼死した牛馬は405頭。神社仏閣など600軒が焼失し、石高で6万6000石の農業被害が報告されている[8]。北へ約100km離れた宮崎県高千穂町でも、「霧島だけ」の火が見えたとある。(『矢津田家文書』)[9]


1717年

2月7日から10日(享保元年12月26日から29日)にかけて噴火を繰り返し、霧島山東側の広範囲にわたって火山灰が降下した。2月13日(享保2年1月3日)朝9時頃、火砕流の発生を伴う大規模な噴火があり、死者1名、負傷者30名、焼死した牛馬420頭の被害があり、神社仏閣や農家など134棟が焼失した。周囲の田畑は厚さ10 - 20cmの火山灰に覆われ、農業被害は3万7000石にのぼった[8]。この噴火による降灰は八丈島でも観察された[7]霧島川では泥流が発生し、下流部の田畑に被害があった[10]。2月17日から21日(1月7日から11日)にかけても断続的に噴火している。

9月19日(8月15日)、享保噴火の中で最大規模の噴火が発生した。高温の噴石を噴出し、火山灰が広範囲に降り積もった。住民の間に流言飛語が広がったため、当時の薩摩藩主・島津吉貴は怪異説・神火説を唱えることや祈祷などを禁じる触れを出した[8]
山麓に降り積もった火山灰は深いところで1.7-1.9mに達し、覆われた地域は13万6300坪に及んだ。高原高崎の住民は、そのほとんどが飯野、小林、松山、野尻、庄内、山田、水流(都城市)に避難した。享保2年2月13日から享保5年頃まで、数千人が参加して「砂上げ」と呼ばれる農地復旧作業が行われた。藩から支援のための食料が支給されている[10][7]。享保噴火の際に火砕流に包まれ炭化した樹木が山中に残されている。


1721年に堆積物の火山泥流が発生。

文政噴火

1822年1月12日(文政4年12月20日)朝、山頂付近に白煙が観察され、夕方に水蒸気爆発を伴って噴火した。14日(22日)には南方を流れる天降川で火山泥流が発生している。8合目付近に新しい4カ所の火口が形成され、軽石や火砕流の噴出を伴う噴火が繰り返された。
昭和噴火

1959年(昭和34年)、中規模噴火。火山爆発指数:VEI2
[6]

2月13日、降灰を伴う小規模な水蒸気噴火があった。噴火に先立つ前兆現象は観測されていない。小規模爆発の後、14:50に爆発的噴火が発生。その際、火口の西北西約3kmにある警察無線中継所(大浪池火口南側外縁部に設置されていたもの。現在は撤去され国土交通省の設備が設置されている場所)が被害を受けた[6][11]

2月17日14時50分、爆発音空振を伴って噴火が始まり、黒色の噴煙が上空4,000mに達した。


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