新潟港
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新潟港
信濃川の河口部に位置する新潟西港
所在地
日本
所在地新潟県新潟市北蒲原郡聖籠町
【西港区】
新潟市中央区東区
【東港区】
新潟市北区、聖籠町
詳細
開港1869年1月1日明治元年11月19日
種類国際拠点港湾中核国際港湾
統計
公式サイト新潟港湾・空港整備事務所
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1.新潟西港 2.新潟東港

新潟港(にいがたこう)は、新潟県新潟市から北蒲原郡聖籠町にわたる日本海に面した港湾である。港湾管理者は新潟県。

新潟市中央区東区に位置し信濃川の河口両岸に港域を有する西港区(にしこうく)と、市域北東端の北区と聖籠町との間に作られた掘込み式の東港区(ひがしこうく)の2港区から構成されており、それぞれ新潟西港(にいがたにしこう)、新潟東港(にいがたひがしこう)の通称を有する。

港湾法上の国際拠点港湾港則法上の特定港に指定されているほか、中核国際港湾にも指定されている。また日本海側拠点港のうち総合的拠点港と、部門別では国際海上コンテナ、液化天然ガスの2部門の拠点港に指定されている。
概要

新潟港は、江戸時代には北前船、明治維新直前には日米修好通商条約によって開港五港の一つとなるなど、歴史上においても日本海側の重要港として栄えてきた。

現在は、古くからの港で中央区と東区の信濃川河口両岸に港域を有する西港区(新潟西港)と、北区と聖籠町との間に昭和期に作られた掘込み式の東港区(新潟東港)の2つの港区から構成されている。西港区は旅客・貨物ともに取り扱う。一方の東港区は旅客用の施設を有さない貨物専用港域で、当初は工業港として開発が進められたが、1996年(平成8年)[1]に国内有数のコンテナターミナルが完成するなど、商港としての機能が高まっている。
歴史
近世(江戸時代末期まで)錦絵『新潟湊之真景』安政6年(1859年)井上文昌筆(新潟県立図書館蔵)

古代から平安時代にかけて信濃川の河口部には蒲原津(かんばらのつ)という港が栄え、物資の集散、旅人の往来が多く見られた。

1616年には長岡城主・堀直寄によって、港町としての基礎が構築。1671年、西廻り航路の寄港地として指定を受け、国内交易上重要な地位を確立した。加えて、1633年9月に発生した洪水によって信濃川と阿賀野川が合流し、河口部の土砂が押し流されたことで港の水深が深まり、大型船が入港できる良港として栄華を極めた。17世紀末期には、出入港した船舶は年間約3,500隻にも及んだという。
近代(幕末開港から太平洋戦争末期まで)日米修好通商条約による開港五港の1つとなった新潟港。手前の建物は新潟市歴史博物館(みなとぴあ)旧新潟税関庁舎(国の重要文化財

1843年、新潟港周辺が天領となり新潟奉行が新設。

新潟港は1858年に日米修好通商条約で開港五港の一つとして指定された[2]函館港横浜港長崎港1859年7月1日安政6年6月2日)に開港し、新潟港とともに開港が延期されていた神戸港1868年1月1日慶応3年12月7日)に開港した。

ところが、新潟港は戊辰戦争北越戊辰戦争)の影響で開港がさらに遅れ、1869年1月1日明治元年11月19日)にようやく開港した[2]。なお、1867年に開港場を新潟港から七尾港へ変更するよう江戸幕府に要求するなど[3]、新潟港の港湾能力に疑念をもっていたイギリス公使ハリー・パークスの強い主張により、新潟港と同時に佐渡島の佐渡夷港(のちの両津港)が補助港として開港した[2][4]

神戸港開港から新潟港開港までの間、1868年9月1日(慶応4年7月15日)に大阪港が開港しており、開港五港のうち最後の開港であるのみならず、条約に含まれていなかった大阪港より4ヶ月遅い開港でもあった。

開港と同時に新潟運上所が開設されたが、庁舎は新築されず、一説には明治2年1月(1869年2月11日 - 3月12日)までは洲崎番所(沖ノ口番所)を使用し[5]、明治2年10月(1869年11月4日 - 12月2日)に新庁舎が竣工した[6]1873年1月4日に新潟税関と改称[7]。しかし、1902年11月1日に新潟税関は廃止され、横浜税関新潟税関支署となった[7][8]1953年8月1日に横浜税関東京税関支署が東京税関として独立すると、1955年8月1日に東京税関へ移管されて東京税関新潟税関支署となった[7][9]。開港五港の税関のうち唯一税関支署となっているが(長崎税関も一時期門司税関長崎税関支署だったが再び独立している)、唯一運上所時代からの庁舎が現存しており、1969年に国の重要文化財に指定されている。「新潟市歴史博物館#旧新潟税関庁舎」も参照

明治期は対外貿易は振るわなかったものの、北洋サケマス漁船など遠洋漁業の基地として栄えた。しかし河口港という条件が大きな障害となった。信濃川上流部からの流砂によって水深が浅くなることが度々あり、港の機能を維持するのに困難をきたしていたのである。1896年には、河口に導流堤を築くものの[10]、抜本的な対策には至らなかった。1930年頃(昭和初頭)の新潟港の地図

そこで国は信濃川の治水対策として1909年に着工した大河津分水事業と併せて新潟港を近代港湾として整備するため、1907年に信濃川の河口改修事業に着手。1915年に着工された埠頭の修築工事と併せて1926年に完成した。これに伴い1924年には山ノ下の民営埠頭が、翌1925年には竜が島の県営埠頭がそれぞれ運用を始めた。

大河津分水の通水と信濃川の河口改修によって、信濃川河口部では大正時代末期から昭和30年代前半にかけて埋立地の開発が行われた。事業は太平洋戦争を挟んで約四半世紀を費やし、川沿いの両岸を中心に行われた。中州の所島や万代島は右岸側と陸続きになり、右岸側に点在した宮浦池などの小規模湖沼が埋め立てられた他、古信濃川などの小規模河川は地下水路などに姿を変えた。これらの埋立地は都市機能と港湾機能の近代化に役立てられ、市街地拡大と港湾施設の拡充などに充当された。

1929年には満州との航路が開設、1931年上越線全通で日本海対岸貿易の拠点港として本格的に機能し始めた。太平洋戦争開戦前の時点では日満航路が週5日就航、東京から「満州国」首都・新京に至る最短ルートとして利用された。

太平洋戦争の戦局激化に伴って太平洋側の航路が維持できなくなったことから、北海道産石炭・満州産大豆などの緊急受け入れ港として取扱量が激増。しかし終戦直前の1945年5月中旬から8月にかけ、米戦略爆撃機B-29による機雷投下、さらに終戦直前には2度にわたる銃爆撃を受けるなど、港湾機能が事実上失われ廃港寸前の状況に陥ったまま8月15日の終戦を迎えた[11]


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