新潟地震
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この項目では、1964年6月16日の新潟県下越沖を震源とする地震について説明しています。

2004年10月23日の新潟県中越地方を震源とする地震については「新潟県中越地震」をご覧ください。

2007年7月16日の新潟県上中越沖を震源とする地震については「新潟県中越沖地震」をご覧ください。

2011年3月12日の新潟・長野県境を震源とする地震については「長野県北部地震 (2011年)」をご覧ください。

2019年6月18日の山形県沖を震源とする地震については「山形県沖地震」をご覧ください。

新潟地震
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地震の震央の位置を示した地図
本震
発生日1964年(昭和39年)6月16日
発生時刻13時1分40.7秒 (JST)[1]
震央 日本 新潟県下越[1]
粟島南方沖40km
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度22.2分 東経139度12.7分 / 北緯38.3700度 東経139.2117度 / 38.3700; 139.2117座標: 北緯38度22.2分 東経139度12.7分 / 北緯38.3700度 東経139.2117度 / 38.3700; 139.2117[1]
震源の深さ34 km
規模   M7.5
最大震度   震度5:新潟県 新潟市長岡市など
津波最大6m
被害
死傷者数死者26人、負傷者447人
被害地域 日本 (主に新潟県山形県秋田県)
注1:場所により6mまで到達
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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新潟地震(にいがたじしん)は、1964年昭和39年)6月16日13時1分40.7秒(JST)に、新潟県粟島南方沖約40km(北緯38度22.2分 東経139度12.7分 / 北緯38.3700度 東経139.2117度 / 38.3700; 139.2117 深さ34km)を震源として発生した地震である[2]。地震の規模はM7.5(Mw7.6)[1]

日本の歴史上、最大級の石油コンビナート災害をもたらした地震で、化学消防体制が脆弱な時代背景もあり[注 1]、143基の石油タンクが延焼し、その火災は12日間続いた[3]。以後、石油コンビナート防災の指標の一つとなっている[4]。そして、この地震を機に住宅地や工業地帯の液状化現象への本格的な研究が始まった[5]。また、日本で地震保険ができる直接的な要因となった震災としても知られ、この2年後、1966年(昭和41年)に地震保険制度が誕生した[注 2]。なお、1960年(昭和35年)のテレビのカラー放送開始から4年後に発生したこの地震は、日本において数多くのカラー映像で被害状況を残すことができた初めての大規模地震である(「#報道」参照)。
地震像

樺太から新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯で発生した地震の一つ。余震は震央の北北東?南南西方向の約80 kmの範囲に分布しているが、震源断層の傾斜方向は明らかになっていない。当時周辺の陸上の地震計(地震観測点)設置箇所は少なく海底地震計は設置されていなかったことから、余震の震源決定の精度は悪い[6]。震源近くの粟島はこの地震によって約 1m隆起した[7][8]。粟島の海岸にはいくつかの段丘が形成されており過去の活動歴を残していて、活動間隔は段丘の高さから約2000年間隔とする説と海底の活断層の解析から約3000年間隔とする説がある[6]

先行する静穏化現象があり、震央を中心として半径約50kmの範囲では16年間に渡って地震活動が低調で、地震の約2年半前からやや活発な活動の後に本震が発生した[9]
震度

震度4以上を観測した地点は以下の通り[1]

震度都道府県観測点
5宮城県鳴子通報所・仙台宮城野区五輪


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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