新渡戸稲造
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新渡戸 稲造
人物情報
別名太田稲造
生誕新渡戸稲之助
文久2年8月3日1862年9月1日
日本
陸奥国岩手郡盛岡
死没 (1933-10-15) 1933年10月15日(71歳没)
カナダ
ブリティッシュコロンビア州ビクトリア
国籍 日本
出身校

ハレ大学

札幌農学校

東京英語学校

作人館

配偶者メアリー・エルキントン(新渡戸万里子)
両親父:新渡戸十次郎
子供

遠益

こと

学問
研究分野

農学

農業経済学

研究機関

北海道庁

札幌農学校

台湾総督府

京都帝国大学

東京帝国大学

学位

農業経済学博士(ハレ大学)

法学博士(1906年・京都帝国大学)

称号

正三位

勲一等

農学士(札幌農学校)

名誉文学士(ジョンズ・ホプキンズ大学)

拓殖大学名誉教授

主な業績

台湾糖業の基礎の確立

人種的差別撤廃提案

オーランド諸島帰属問題の解決

主要な作品『武士道
影響を受けた人物ウィリアム・スミス・クラーク
主な受賞歴勲一等瑞宝章
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新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:新渡? 稻造󠄁、文久2年8月3日1862年9月1日〉- 昭和8年〈1933年10月15日)は、日本教育者思想家農業経済学農学の研究も行っていた。札幌農学校在学中に出会ったキリスト教から多大な影響を受ける。

国際連盟事務次長も務め、著書『武士道』は、流麗な英文で書かれ、長年読まれている。日本銀行券五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(後の東京文化短期大学、現在の新渡戸文化短期大学)初代校長。
生涯

陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛用人を務めた盛岡藩士新渡戸十次郎の三男として生まれた。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて盛岡藩校作人館に入り {{未検証}} 、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り、幕末に早世した次男十次郎に代わって新渡戸家の家計を大いに助けた。

稲之助は巡幸中に新渡戸家で休息していた明治天皇から「父祖伝来の生業を継ぎ農業に勤しむべし」という主旨の言葉をかけられたことから、農学を志すようになったという。
盛岡から上京

作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。

上京後は叔父の養子となって太田稲造として英語学校で英語を学んだ。

翌年には元盛岡藩主である南部利恭が経営する「共慣義塾」に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。そのため、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず「店の金を持ち出した」と疑われることもあったという。その一件が有ったのちは、信頼を回復しようと稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。

13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の旧制第一高等学校東京大学教養学部)に入学した。ここで稲造は同じ南部出身で後の北海道帝国大学初代総長となる佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、その後、農学の道に進むことを決意した。
札幌農学校へ内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代

15歳になった1877年9月になると、札幌農学校(現北海道大学)の二期生として入学した。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士は既に米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、加害獣である巨羆の解剖をした。稲造は祖父[注 1]達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にもかかわらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり「アクチーブ」(活動家)というあだ名を付けられた。

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味を持ち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名した。後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽ったりするなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

この頃から稲造は視力が悪化し、眼鏡をかけるようになったが、やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りからうつ病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、トーマス・カーライルの『衣服哲学』(『サーター・リサータス』、Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。


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