新浦壽夫
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新浦 壽夫(金日融)基本情報
国籍
日本
出身地東京都世田谷区
生年月日 (1951-05-11) 1951年5月11日(73歳)
身長
体重183 cm
80 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1968年 ドラフト外
初出場NPB / 1971年4月13日
KBO / 1984年
最終出場NPB / 1992年9月23日
KBO / 1986年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


静岡県立静岡商業高等学校 (中退)

読売ジャイアンツ (1968 - 1983)

サムスン・ライオンズ (1984 - 1986)

横浜大洋ホエールズ (1987 - 1991)

福岡ダイエーホークス (1992)

ヤクルトスワローズ (1992)

コーチ歴


静岡県立静岡商業高等学校

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新浦 壽夫(にうら ひさお、1951年5月11日 - )は、東京都世田谷区出身(静岡県育ち)の元プロ野球選手投手)・解説者

出自は在日韓国人で、韓国名は「金日融(キム・イリュン、???)」である。NPB入り後の1978年に長男が誕生したことを機に、知己の国会議員である稲葉修立川談志の協力を得て日本国籍帰化して韓国系日本人となったことを自ら明かしている[1]
来歴・人物
プロ入りまで

在日韓国人2世として東京都世田谷区二子玉川で出生した。その後すぐに静岡市へ転居した。小学校時代はプロレスが好きで、力道山がヒーローだった。静岡市立安倍川中学校に進学し、いろいろな運動部から誘われたが最終的に野球部に入った。大橋功男というピッチャーがいたため、自分は2番手で、投げる機会はほとんどなかった。3年生のとき御前崎中学校に転校してからはエースとして活躍し、県南部大会優勝を果たした。秋の地区大会を見に来た静岡商業高校OBから誘われ、同校に進学した[2]。同校定時制の1年次を修了後、同高校全日制の(2年次ではなく)1年次に編入した。1年次の1968年夏の甲子園へエースとして出場すると、決勝までの5試合で、完封3試合、1失点完投2試合を記録。決勝に進み興國高丸山朗と投げ合うが、0-1で完封を喫し準優勝にとどまる[3]。この時のチームメイトには池谷公二郎、1年上に藤波行雄、当時三塁手でのちに大洋で同僚となる松島英雄らがいた。前述の経緯で卒業を待つと全日制3年次には年齢制限で公式戦出場資格を逸するうえに当時新浦は韓国籍であり、この頃のドラフト制度では、日本の学校を卒業しても外国籍選手はドラフト会議にかける必要が無かったため[4]、国内の6球団及びメジャーリーグも巻き込んだ争奪戦となった。この結果、新浦は秋季県大会の期間中に高校を中退して読売ジャイアンツドラフト外で入団し、8月22日の甲子園決勝から18日後の9月9日に入団が発表された[3]。これがきっかけとなり、その後「日本の学校に所属する選手はすべてドラフトにかける」というルールに変更されたが、当の新浦は後年、「日本語しか分からない俺が日本人じゃないと意識した数少ない機会がこのときだった」と回想している。
巨人時代

巨人での最初の2年間は、入団時にを痛めており、年齢も17歳と若かったことから、一切ボールを握らずランニングのみの指令が川上哲治監督から出ていた[5]。肩には小さなひびが入っていたこともあり、新浦は広島の住田整骨院に通う傍らで酒屋で配達のアルバイトをしながら体を作っていった。

1971年に一軍に昇格したあと、V9最終年の1973年先発ローテーション入りし、威力のある速球とカーブを武器に、1973年に3勝、翌1974年に7勝6敗1セーブで頭角を現す[6]

1975年長嶋茂雄監督が就任すると、先発と救援の両方で失敗する場面が多く2勝11敗と低迷した。大量リード時にリリーフしても打ち込まれて逆転されるなど、「ノミの心臓」[注 1]が話題となり、マウンドを囲んだ王貞治が「(リードしている)スコアボードを見ろ」と指さし叱咤する等のエピソードもあった。防御率3.33で新浦は「いつもめった打ちを食らった印象はなく運が悪くて打線の援護に恵まれなかった。試合もあったと思います。同点で降板したら次の投手が打たれて負け投手になったこともあります。罵声も浴びたし、球団史上初の最下位はお前のせいだと言われましたね。シーズン中、肩も肘も痛くないのに結果が出ない。」[6]と述べている。長嶋監督自身も新浦の起用には疑問を持たれたほどであったが、この時期に打たれても打たれても長嶋監督が登板させ続けたことが新浦を成長させたともいわれている。同年8月、一度2軍で調整になり、1軍復帰すると8月31日のヤクルト戦で1安打完封して初勝利。長嶋監督の進言で禁煙を決意[7]、これが76年の飛躍につながっていく。

1976年願掛けの意味で正月から禁煙すると太ってしまい長嶋から「どうしたのその体は?」と聞かれ、「タバコ辞めたんです」と答えたら「お前はそんなの気をつかうなよ。勝ち負けは俺の責任だ。お前は吸え。ケツの中にヤニを突っ込んでも吸え」と言われ、再び喫煙すると体が絞れボールが速くなってキレが出てきた[6]。初の規定投球回(3位、防御率3.11)に達し、同年以降は1979年まで202試合に登板(そのうち77試合に先発)し、大車輪の活躍で4年連続2桁勝利と2桁セーブポイントを同時に挙げる。1976年1977年の連覇に貢献[6]。「具体的な優勝の思い出はないのですが良かったと思います。長嶋監督に恩返しができてありがとうございましたという気持ちです。長嶋さんが使ってくれなければトレードに出されていもおかしくない存在でしたから」と述べている。1977年、1978年は2年連続で最優秀防御率最多セーブを同時に記録した(1978年には最優秀救援投手ベストナイン。1979年には当時タイトルではなかった時代だが、最多奪三振も記録している)。ベンチで長嶋に「新浦、今日(登板が)ないからと言われ、試合中に翌日の為にブルペンに行って他の投手の投球練習の合間に軽く投げていたら電話がかかってきて「新浦、登板だ。」と言われたこともあり[6]、絶対的な「左のエース兼リリーフエース」として長嶋監督に信頼された[6]。1977年5月31日の対中日戦での打席で、戸田善紀から12球連続してファウルボールを打っている。結果は、カウント2-2から17球目で三振であった[8]


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