新橋喜代三
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新橋 喜代三

基本情報
出生名今村 タネ(タ子)
別名八重丸 成金 千成 蔦奴 喜代治 喜代三 中山 嘉子 中山 喜代三
生誕1903年10月12日
出身地 日本 鹿児島県熊毛郡北種子村
死没1963年3月23日
ジャンル小唄長唄清元民謡端唄歌謡曲
活動期間1932年 - 1963年
レーベルポリドールビクター

新橋 喜代三(しんばし きよぞう、女性、1903年10月12日 - 1963年3月23日)は昭和初期から中期に活躍した芸者歌手
鹿児島県種子島熊毛郡北種子村(現在の西之表市)出身。本名は中山嘉子。旧姓は今村、旧名はタネ。(読み方は同じで「タ子」と書かれた書物もある)。作曲家中山晋平の後妻。享年59。
来歴

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幼少時代

1903年(明治36年)10月12日、鹿児島県種子島熊毛郡北種子村(現・西之表市)で父今村正義、母チカの元に9人兄妹の長女(第1子)として誕生。出生地の種子島に因んで「タネ」と名付けられた。間もなく両親と鹿児島市に移り住む。

正義は本来畳職人であったが、水商売を好み旅館料亭など幾多の商売を手がけるもいずれもうまく行かず、鹿児島市内を転々として過ごした。

鹿児島市唐湊に住んだ頃、尋常小学校へ入学するが、正義の度重なる商売の失敗で夜逃げをするに至り、宮崎県小林市に移り住んだ後、家計を助けるため尋常小学校5年で中退、近所の芝居小屋「新芸座」に住み込んで売り子の仕事をするようになった。

1916年(大正5年)2月、小林で正義が営んでいた商売が軌道に乗り、一家は鹿児島へ戻る。鹿児島に戻った一家は、鹿児島駅近くの小川町で小さな果物屋を開いた。
芸者となる

1916年(大正5年)4月、果物屋の常連客であった鰺坂某が、正義に「タネを芸者にしないか」と相談しているのを耳にしたタネは、小さな果物屋の商いで家族8人が暮らして行く大変さ、商売が軌道に乗ってもまたいずれ正義が新たな商売に手を出す事を慮り、翌朝両親に芸者になりたいと打ち明けた。両親は当然の事ながら反対するが、タネの熱心な説得は続き、とうとう両親を説き伏せ、4月15日、鹿児島市の西券番に属する芸者置屋「都屋」へ身代金100円と引き換えに芸者の仕込みとして入る。正義はその身代金を元手に食堂を開店した。

同年9月1日、同じ置屋の芸者八重子の妹分として八重丸の名で見世出しするが、南券番より移籍して来た同僚芸者の小染から南券番の芸の水準の高さを聞かされた八重丸は、芸の水準のみならず客層や料亭の格も上級である南券番への移籍を希望し、見世出しからわずか3ヶ月ほどで南券番の置屋「松屋」に移り、12月15日に先輩芸妓千代治の妹分として、置屋の主人の命名により成金の名で見世出し(周囲から名前について冷やかされたため、改名を願い出て翌正月より千成となる)。当時、鹿児島の花柳界に所属する芸者は関西出身の者が大半を占め、地元出身の芸者は極少数であったため、非常に珍しがられたという。

唄に三味線にと熱心に取り組み、馴染みの客なども出来順調なようであったが、旦那(ここではスポンサーのこと)を持つ事を拒否していたため、着物代などの経費は自腹で賄わねばならず、その為に借金が増えていった。
台湾へ移る?木村伊兵衛との恋

1919年(大正8年)5月、最初に千成を西券番へ紹介した鰺坂某と街中で偶然会ったところ、台湾で働く芸者を探しに来ている人が、前月行なわれた券番の温習会を見て、千成の事を気にかけているという話を聞き、借金を清算するために台湾行きを希望する。話はトントン拍子に進み、5月25日に下関から信濃丸で台湾へ渡る事となる。年季は4年で1,500円の前借りという条件であった。台湾では置屋「高砂」に所属し蔦奴と改名して台湾での芸者稼業をスタートさせた。

当時仕事で台湾に駐在していた後の写真家木村伊兵衛と恋に落ちた。1922年(大正11年)6月、伊兵衛が日本へ引き上げることとなり、日本が恋しくなった蔦奴も鹿児島への引き上げを決意する。年季があと1年近く残っていたことによる前借金の清算と、台湾で新たに作った借金の合わせて1,500円を請求されたが、迎えに来た正義が交渉して1,300円に負けてもらい、そのうち800円を現金で支払い、残りは証文にして後日の支払いを約束、再び鹿児島へ戻ることとなった。
再び鹿児島へ、そして伊兵衛との別れ

鹿児島に戻り、南券番の置屋「喜楽」に所属。1922年(大正11年)7月10日、妓籍名を喜代治と改めてお披露目。鹿児島に戻ってからも伊兵衛とは手紙を通じて交際は続いたが、次第に伊兵衛からの連絡が滞るようになり、11月にはとうとう手紙の返事が来なくなった伊兵衛の気持ちを確かめる為に、置屋には熊本へ行くと偽り、生まれて初めて上京。

東京では伊兵衛の両親とも初めて対面し、本人との関係も修復して10日後には鹿児島へ戻るが、12月20日には伊兵衛へ思いが高まり、誰にも告げぬまま発作的に夜行列車に飛び乗り、東京へ向かう。しかし、喜代治の行動を察知した券番の坂崎某が後を追って上京し、鹿児島へ帰るよう説得するも聞き入れなかったため、さらに正義が上京し、結果鹿児島へ連れ戻された。その際、伊兵衛の両親との仲も円滑であったことから、伊兵衛と両親は喜代治との結婚を視野に入れ落籍を願い出たが、一括で落籍に要する費用を支払えなかったため正義に断れている。そもそも正義は台湾時代に伊兵衛が一人で鹿児島を訪ねて来た頃から良い印象を持っていなかった事も災いした。

年が明けて1923年(大正12年)1月の末、伊兵衛の母親から立腹した内容の手紙が届き、喜代治が知らぬ間に正義が伊兵衛の両親宛に「娘は伊兵衛との仲をあきらめた」と偽りの内容の手紙を出していた事を知る。
すぐさま弁解の手紙を出そうとしたが、実際問題としてなかなか進展しない伊兵衛との仲や、正義をはじめとする周囲の反対に、この恋の成就は無理だと悟った喜代治は別れを決意し、伊兵衛の母親宛にその旨を記した手紙を送っている。なお、大正末年頃には、鹿児島乗馬会に属し、乗馬服を着て日曜日など遠乗りした[1]
鹿児島随一の売れっ子芸者として

伊兵衛と別れた喜代治は一層芸に打ち込み、それに人柄も相まって人気も上昇していった。この頃、垂水市温泉で後に「東洋のマタハリ」と呼ばれる川島芳子と遭遇している。昭和に入ると、ますます喜代治の人気は高まり、地元の名士の宴席はもちろんのこと、鹿児島を訪れた政財界の要人の宴席には決まって喜代治が呼ばれるようになる。

1929年(昭和4年)には、鹿児島を訪れた大倉喜七郎大川平三郎松野鶴平渋沢栄一らの宴席も務めており、彼らは後に喜代治が新橋花柳界に移籍してからも贔屓の客となった。この頃、先輩芸者一八が得意とし、別名『一八節』とまで言われた『小原良節』 を直々に教わり、一八が京都へ移った事からその後継者となった喜代治は、(当時鹿児島にはNHKの放送局が無かったため)NHK熊本放送局から『小原良節』『はんや節』『よさこい』『三下り』『げんや節』などを放送して名をあげ、度々熊本放送局へ呼ばれるようになり、コロムビアからの依頼により大阪のスタジオでレコーディングも行なった。
中山晋平との出会い


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