新明 正道
生誕 (1898-02-24) 1898年2月24日
死没 (1984-08-20) 1984年8月20日(86歳没)
墓地多磨霊園
国籍 日本
出身校東京帝国大学
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新明 正道(しんめい まさみち、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:新明󠄁 正道󠄁、1898年2月24日 - 1984年8月20日)は、日本の社会学者。独自の立場から綜合社会学
を創設。東北大学社会学講座主任教授として、長らく日本の社会学をリードした。家永三郎の義父。1946年9月、民族論などの戦前の著作物において、大東亜共栄圏に加担したかどで教授不適格の判定を受け、免官される[1][2]。東北帝大は社会学を講義する教官がいなくなり、社会学の学部生・院生は宗教学講座が引き受ける[1]。1947年と1948年に清水幾太郎が非常勤講師として集中講義をおこなうが、新明が復職できない場合、清水に教授に就任してもらう話がついていた[3]。新明は1950年10月に公職追放が解除、1951年10月に教職追放
が解除、11月に大学に復帰、12月より講義を再開しているが、清水は新明の公職追放解除前の1949年3月に非常勤講師を辞職、新明の復職が分からないうちの辞職であり、清水は1948年後半から平和問題談話会の活動などで東京での活動が想定され、仙台への赴任は地理的に大きな制約となり、清水に教授に就任する気がなくなっていた[4]。清水が辞職してから新明が復職するまでは林恵海が非常勤講師を担当した[4]。