新庄直頼
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例新庄直頼
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文7年(1538年
死没慶長17年12月19日1613年2月8日
改名直頼→晟珊
別名通称:新三郎、新庄駿河入道晟珊(略:新駿入)、宮内卿、法名:晟珊
戒名総寧寺殿月海晟珊大居士
墓所吉祥寺(東京都文京区駒込)
官位従五位下駿河守宮内卿法印
幕府江戸幕府
主君浅井長政織田信長豊臣秀吉秀頼 → 改易 → 徳川家康秀忠
常陸麻生藩初代藩主
氏族新庄氏(秀郷流)
父母父:新庄直昌、母:久我大納言某の娘
兄弟直頼、直忠、直壽[1]、ほか女子2名
正室佐久間盛重の娘[2]
室:前田利太の娘[3]
直定、直綱、堀秀信[4]直房
女(柴田帯刀[5]室)
養子虎姫[6]中川秀成室)
テンプレートを表示

新庄 直頼(しんじょう なおより)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名常陸麻生藩の初代藩主通称は新三郎。官位は従五位下駿河守、後に剃髪して駿河入道晟珊とも称し、後に法印に叙されている。直忠は弟。

摂津山崎城主から近江大津城主、大和宇陀城主を経て、高槻城主。豊臣秀吉御伽衆。関ヶ原の役で失領したが、文武に優れ人倫をわきまえた人物であったことから[8]徳川家康に召し抱えられた。
生涯

天文7年(1538年)、近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌の長男として生まれた。『重修譜』には母は久我大納言某の娘とある[9]

天文18年(1549年)、父が27歳のときに江口の戦いで戦死し[9]、11歳で後を継いだ。『 浅井三代記』によると、浅井氏六角氏の間で揺れ動いていたが、最終的には戦国大名浅井長政に従った[3]

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは浅井側の第四陣を構成して戦っているが、その後、同2年(1571年)2月に浅井方の南方の拠点佐和山城磯野員昌が降伏して開城し、織田方の丹羽長秀に朝妻城が攻められたことから、直頼も開城して軍門に降った[3]

織田家では江北を任された羽柴秀吉の与力とされたが、坂田郡の支配を強めた秀吉によって次第に家臣化された。

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍し、近江坂本城を守備した。この頃、山崎城3万石に封じられていたというが、時期ははっきりしない[3]。天正19年(1591年)に近江大津城1万2,000石に移封されるが、嫡男・直定の所領と併せて2万4,000石ともいう[7]。秀吉の馬廻を務め[3]、同年11月、三河吉良狩猟のときに直定と共に秀吉に随従した[7]。また、伏見城普請を分担[7]

文禄元年(1592年)、文禄の役には、直定(新三カ)が兵300を率いて朝鮮へ渡海した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:24 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef