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新広西派(しんこうせいは、もしくは新桂系)は、中華民国時代における南方軍閥の1つ。広西派は陸栄廷らが率いた旧広西派と、李宗仁、白崇禧などが率いた新広西派に分けられる。 旧広西派は両広戦争
新広西派の成立と北伐
1926年7月、北伐が開始され、新広西派の第7軍主力部隊が湖南と湖北に北上する。汀泗橋、賀勝橋の戦役の後で、北閥軍の主力、主に国民革命軍の第4軍および第7軍で、北洋軍閥の呉佩孚の主力を消滅させ、武昌を包囲した後、9月、第7軍は江西省で戦い、徳安戦役などの戦闘を経て、軍閥の孫伝芳の主力部隊を撃破して、江西を制圧した。
1927年初めまで、第7軍は江南に転戦して、安慶、江南、両湖は、国民政府の掌握下に入った。この第7軍の功績にかんがみて、国民革命軍の第7軍は民間と政府に「鋼の7軍」と宣伝され、同時の国民革命軍の第4軍も「鉄の4軍」と宣伝された。
1927年4月12日、?介石が上海クーデターを起こし、共産党員と国民党左派を処刑したのと同時に、新広西派でも大量の国民党左派と共産党員の処刑を執行し(彼らはこれを「清党」と呼称した)、共産党の恨みを買った。武漢の汪兆銘は依然として孫文の容共政策を継続し、?介石の国民党党籍剥奪とすべての職務からの除名を宣言したため、南京国民政府と武漢国民政府の2つの国民政府が現れてしまったが(寧漢分裂)、すぐに汪兆銘の武漢国民政府も清党を行い、第一次国共合作は終焉した。
8月、?介石の譲歩で南京国民政府と武漢国民政府の合併が成立し(寧漢合併)、第7軍はまた竜潭戦役の中で侵略してくる孫伝芳の部隊を打ち破った。竜潭の戦いでの孫伝芳の部隊の損害は甚大で、以降孫伝芳は中国の政治界から姿を消した。 9月、新広西派は唐生智と政治権力を奪い合うために「唐代の戦い」が勃発し、寧漢戦争になった。唐生智は敗れ、彼の軍は桂軍に取り込まれた。新広西派の勢力は広西から両湖までへ広げ、さらに広東政府主席の李済深を取り入れ、広東省も新広西派の勢力下に入った。 1928年4月、李宗仁は国民政府第4集団軍総司令官兼武漢政治分会主席を任命され、第4集団軍は桂軍直系部隊と元唐生智の両湖部隊で構成され、兵力約20万を保有した。 1928年、国民党は?介石、閻錫山、馮玉祥、李宗仁は共同で北伐し(第2次北伐)、奉天派の張作霖を主とする北方の各軍閥に進撃した。国民革命軍は河北、河南を攻撃占領し、6月4日、敗北した張作霖は北京を脱出、関東軍は張作霖を爆殺した。息子の張学良は日本の圧力を顧みないで、奉天派の国民政府への従属を宣言し(易幟)、形式上は国民政府が全国統一を果たした。そして新広西派の勢力権は河南、河北まで広がった。 1929年、?介石と新広西派は国民政府の指導権を奪い合って?桂戦争が勃発した。河北の桂軍は元唐生智の軍であったため、?介石は唐生智の影響力を利用して河北の桂軍の瓦解に追い込み、白崇禧は単独で河北から逃亡した。さらに湖北では、新広西派内部の矛盾を利用し、元新広西派の李明瑞 ?介石は元新広西派の兪作柏、李明瑞に広西省を統治する様に任命したが、実は2人とも政治的身分は左翼で、親共に転じ、広西省でケ小平、陳豪人
寧漢戦争と勢力拡大
?桂戦争から両広事変まで
1930年、新広西派が左右江根據地に進撃し、紅7軍と紅8軍を打ち破ると、紅8軍は紅7軍に編入された。紅7軍は広西からも離れて、中央の革命根拠地に向かったため、以後の広西の境界内の共産党の活動は次第に低迷し始め、やがて広西からは共産党の勢力が一掃された。あとで、新広西派は中原大戦に参加したが、新広西派、西北派、山西派の三大軍閥はすべて?介石に破れた。?介石は徹底的に国民党内部の派閥を弱め、国民政府の実権を掌握し、?介石の勢力は中国内の最大勢力になった。以後、?介石は国民政府内中央の名義を獲得して、その直系部隊は中央軍と称された。
しかし、新広西派は黄紹を新広西派を裏切らないと李宗仁に対し約束させ、白崇禧の理解の下、?介石の国民政府に送った。そして新広西派は李白黄の3人の体系の確立した。黄紹рヘ?介石の元で働く事を受け入れたが、新広西派内においては実質失脚した。それ以後、新広西派は内部の黄旭初が次第に黄紹рフ後継者の地位を得て、李白黄後の体制を安定させた。 1932年から1936年まで、新広西派は広西省を統治し、広西省の境界内の匪賊による被害の軽減、自警団の制度を改善して、広西の治安を好転させ、予備役をも募集し桂軍を強化した。新広西派の政策は広西省の近代化が立ち後れた地域を次第に発展させ、その主要な政策は三自と三寓政策と呼ばれた。 だが同時に新広西派はアヘン売買をし、収入を増加させていた。また、広西省境界内の共産党をはじめとする左派政治勢力と共に、金秀瑶変
安定期
新広西派は剿共作戦において?介石の中央軍への協力を拒否する一方、共産党の紅軍に対しては、礼節を保ちつつ地域外に実質追放(礼送出境)する戦略をとり、自らの広西省支配を恒久的なものにするため、紅軍、?介石の中央軍、その他軍閥いずれの部隊に対しても自領域への進入を許さなかった。新広西派は湘江戦役の際に軍を出動させ紅軍の少共国際師を側面攻撃した例を除き、長征期間中を通して紅軍と大きな戦闘を行わなかった。また新広西派は紅軍を追跡して広西省領内に侵入した中央軍の一部を武装解除させ、?介石から広西省に進入しないとの言質をとった後ようやくこの部隊の武装を返却した。新広西派はまた紅軍が境界線を通過した後三千捕虜という記録映画を撮影し、政治宣伝とした。
両広事変(中国語版)を勃発させた。しかし台湾の史学界は両広事変に対して異なった評価を下している。両広の軍閥はこの事件は日本軍の中国侵略への抵抗の象徴だとして、日本に融和的政策を取る?介石に抵抗したとしている。なぜなら両広の軍閥の首領はすべて民族主義者で、満州事変以来事あるごとに日本軍は中国を侵略し決して妥協することなく、しかも最終的には戦争になって中国は日本に敗北すると声明したため、両広事変が愛国的行為だと考える事も出来ると言うのだ。
しかし同時に両広の軍閥が日本の軍事物資の援助を受け入れたことを指摘している資料もあり、それを兵力増強に用いて、?介石に抵抗していた事は、日本の軍事物資の援助を受け入れることで両広の軍閥は日本と協定を結び、戦後中国の主権を自分達が握ろうとしていたとするものもある。