新島襄
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個人情報
本名新島 七五三太
別名Joseph Hardy Neesima
出生 (1843-02-12) 1843年2月12日
日本武蔵国江戸神田(現・東京都千代田区神田)
死去 (1890-01-23) 1890年1月23日(46歳没)
日本神奈川県淘綾郡大磯町
墓所同志社墓地(京都府京都市左京区
国籍 日本
両親父:新島民治
母:新島とみ
配偶者新島八重
職業教育者宗教家
出身校アマースト大学
アンドーヴァー神学校
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新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、1843年2月12日天保14年1月14日) - 1890年明治23年)1月23日)は、キリスト教徒教育者である。

江戸時代1864年元治元年)に密出国してアメリカ合衆国に渡り、そこでキリスト教の洗礼を受けてフィリップス・アカデミー(高校)、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ぶ。そして、改革派教会カルヴァン主義)の清教徒運動の流れをくむ会衆派系の伝道団体である「アメリカン・ボード」の準宣教師となった。日本に帰った後の1875年明治8年)にアメリカン・ボードの力添えによって京都府にて同志社英学校(後の同志社大学)を設立した。
生涯
幼少時代

天保14年(1843年)、江戸(現・東京都区部)の神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。母は武州浦和宿とみ通称は七五三太(しめた)。祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある[1]は敬幹(けいかん)。

元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から憧れを持つようになる。その後幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ[2]
函館潜伏 - 渡米新島襄海外渡航の地碑(函館市大町)脱国の扮装[3]

元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄である沢辺琢磨福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。

6月14日7月18日)、函館港から米船ベルリン号で出国する。ベルリン号の中で新島は武士の命とされるまげを切り落とした。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った[注釈 1]。ワイルド・ローヴァー号の中では船長に上海で乗せてくれたお礼にと自分が持っていた長い刀をわたした。そのお返しに英語訳の聖書をくれた。慶応元年(1865年)7月20日ボストン着。

ワイルド・ローヴァー号の船主、アルフィーアス・ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができた。
岩倉使節団アマースト大学(1875年頃)

慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受ける。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業。

明治3年(1870年)にアイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3の一つで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アーモスト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得であった。新島は大学で自然科学系地質学(鉱物学)を専攻していた。アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。また、同大学では哲学教授ジュリアス・シーリーからも影響を受けている。

当初、密航者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可された。

明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランススイスドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンに戻って約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。
宣教師任命 - 帰国グレース教会(バーモント州ラットランド新島が最初に洗礼を授けた安中教会の30人と共に(明治11年3月30日)

明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業する。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託した。明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けた。新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」(Corresponding member of the Japan)であった[5]。同年10月9日、バーモント州ラットランドのグレース教会(英語版)で開かれたアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴えて5,000ドルの寄付の規約を得た。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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