新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は、「新屋坐天照御魂」を社名とする神社。大阪府茨木市内に三社がある。
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延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座 並名神大 月次新嘗 就中天照御魂神一座預相嘗祭」として記載される式内社(名神大社)である。以下の三社が論社とされ、中でも西福井のものが中心的な神社とされる。
新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西福井) - 旧郷社
新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市宿久庄) - 旧村社
新屋坐天照御魂神社 (大阪府茨木市西河原) - 旧村社
上記の3社は互いに関連しており、西福井から宿久庄・西河原に分祀されたものとも、『延喜式神名帳』に「新屋坐天照御魂神社三座」と記載されていることから、それぞれが1座ずつに対応するものともみられている。なお、社名にある「新屋」とは一説には「新野」を意味し、古代における新開拓地の意味であるとされる。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}別の説では主神の邇芸速日尊の名が訛ったものとする。これは「新屋(にひや)」が「新野」だとすると「新(にひ)」が訓読みなのに対し「野(ヤ)」が漢音となり、あり得ない表記となるためだ。また「野」は自然にできた平らな原野を、「原」は野を開墾した土地、開墾を意味する。[1]記紀が成立した頃は万葉仮名の様に漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しており「新屋」も漢字の音訓で表記したものと思われる。邇芸速日尊をローマ字表記にすると NIGIHAYAHI(にぎはやひ)だが、西日本では濁音が清音に変化するため NIKIHAYAHI(にきはやひ)となる。また発音し難い「は」と末尾の「ひ」が省略され NIKIYA。世界的に K は H に転化するため、NIHIYA(にひや) になったとする。[要出典] 『延喜式神名帳』には「新屋坐天照御魂神社 三座 並名神大。月次新嘗。就中天照御魂神一座預相嘗祭」と記載されており、3座中の1座が天照御魂神であることが判明する。この「天照御魂神」ついては『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に、「奉授…摂津国…従五位下勲八等新屋天照御魂神、並従四位下」とある。また『日本三代実録』同年5月26日条には「摂津国従五位下伴馬立天照神、伴酒着神、並授正五位下」とあるが、摂津国の「天照神」として知られるのは当社だけであり、天照御魂神は既に「従四位下」に叙されているわけなので、この「天照神」は残りの2座中の1座であり、「伴酒着神」が最後の1座であると推定できる。なお、それ以前、『続日本後紀』嘉祥2年(849年)12月15日条に「奉授伴馬立天照神、伴酒著神。從五位下」とあって、これは国名を欠くものの、神名と神階の両者から、当社の伴馬立天照・伴酒着2神に該当することが分かる。 すなわち、本来の当社祭神は であったと考えられている[2]。 なお、神名の「天照御魂」から、本来は当地における太陽神信仰に基づく神社であったとの説がある[2]。これは西福井の新屋坐天照御魂神社を中心に見ると、西河原・宿久庄はそれぞれ冬至における日の出・日の入りの方角に位置し、逆に西河原から見ると西福井は夏至の日の入りの方角に、宿久庄から見ると夏至の日の出の方角にあたっているために、そこから太陽神信仰を導き出そうとするものであるが、太陽神信仰はともかくとして、3社の位置関係をその信仰に基づくものとする点は立証性に欠けるものである。
祭神
新屋(坐)天照御魂神 - 名神大社で月次・新嘗・相嘗祭に預る
伴馬立天照神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預る
伴酒着神 - 名神大社で月次・新嘗祭に預る