新宿LOFT
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ロフト(Loft)は、株式会社ロフトプロジェクトが運営する日本ライブハウス

セゾングループ雑貨店ロフトとは全く関係ない。
経営者

ロフトプロジェクト代表の平野悠(ひらの ゆう)は、1944年東京生まれ[1]。大学時代に新左翼運動にはまり、大学中退後に郵政省に入省、新左翼系労働運動に従事し逮捕歴3回[1]1970年に郵政省を辞める[1]。本人曰く、当時は共産主義者同盟(ブント)の党員だったため公安警察に目をつけられており、とある出版社への就職を試みた際も公安からの圧力で潰されたという[2]

1971年3月にジャズ喫茶烏山ロフト」を開店した(1975年閉店)[1]。1年ほどして経営が安定してきたところで2号店を出そうということになり、当時吉祥寺で人気だったフォーク喫茶「ぐゎらん堂」のような店をやろうと考えていたところ、店の常連から「ロックフォークをライブで聴かせる空間がまだ日本にはない」としてライブハウスの経営を勧められる[2]。ただ吉祥寺は物件相場が高かったため、比較的家賃の安い西荻窪に1973年6月「西荻窪ロフト」を出店した(1980年閉店)[2]。その後、1974年11月荻窪ロフト(1980年閉店)、1975年12月下北沢ロフト(1980年に譲渡)、1976年10月西新宿に新宿ロフトをオープン[1]。この頃になると高円寺JIROKICHI・吉祥寺MANDALAなど競合するライブハウスも増えていたため、対抗上早いペースでの出店を強いられたという[2]。この頃はライブ部分だけでは商売が成り立たないため、昼ごろからロック喫茶として店を開け、夕方からリハーサル・ライブを行い、ライブ後は居酒屋として朝まで営業することでなんとか採算を取っていた[2]

1980年にはロック居酒屋自由ヶ丘ロフト」も開業したほか、レコードレーベルなども立ち上げたが、1982年に新宿ロフトのみの経営となる[1]。1980年代に入ると新宿ロフトは「パンクの聖地」として知られるようになるが、一方でJAGATARA(特にリーダーの江戸アケミ)などは「商業主義の新宿ロフトを潰せ」キャンペーンを張るなど対立し、それが逆に音楽業界で話題を呼んだ[2]

5年間で100か国を旅し、ドミニカ共和国市民権を獲得し、1987年に日本食レストランと貿易会社を設立[1]1990年国際花と緑の博覧会ではドミニカ政府代表代理、ドミニカ館館長を務める[1]1991年に「下北沢SHELTER」をオープン[1]1992年にドミニカから撤退して帰国[1]1995年歌舞伎町でトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープン[1]

アメリカ人の日本研究者ヘンリイ・パイク・ブイの孫(次男の子)である平野レミいとこにあたる[3]
ロフトプロジェクト運営ライブハウスNaked LoftAsagaya/Loft ALOFT9 Shibuya(2018年8月)
新宿ロフト


沿革


1976年10月1日西新宿小滝橋通りにオープン。

1986年、東京厚生年金会館で10周年イベント開催。

1992年、ビルのオーナーから立ち退きを命じられ「新宿LOFT立ち退き裁判」になる。

1997年、日本武道館で20周年イベント開催。

1998年12月15日、ビルのオーナーと和解成立。

1999年3月17日、退去。4月1日、歌舞伎町新宿コマ劇場横に移転。

2006年には30周年を迎え、イベント「SHINJUKU LOFT 30th ANNIVERSARY -ROCK OF AGES 2006-」が開催された。

施設概要


所在地 東京都新宿区歌舞伎町1-12-9 タテハナビル B2F

最寄り駅 JR新宿駅東京メトロ新宿駅西武鉄道西武新宿駅

スタンディング(約500人)

ロフトプラスワン(LOFT/PLUS ONE)


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