新宿末広亭
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新宿 末廣亭(2008年7月5日撮影)地図

新宿末廣亭(しんじゅくすえひろてい)は、東京都新宿区新宿三丁目にある寄席である。
概要

都内に4軒存在する落語定席の一つで、落語を中心に、漫才・俗曲などの色物芸が演じられている老舗(「色物」という言葉は寄席に由来する)。末廣亭は、常用漢字である末広亭と表記されることも多く、末広亭の外に掲げられた提灯の中には末「広」亭と書かれたものもある(画像参照)。

かつて人形町に存在した寄席「人形町末廣」とは全くの別物である[注釈 1]。また、1940年代後半浅草にあった「浅草末廣亭」は大旦那(北村銀太郎)が開場したものである[注釈 2]
歴史

1897年明治30年)創業。元々は堀江亭[1]という名前で営業していたものを1910年(明治43年)に名古屋の浪曲師末広亭清風が買い取って末廣亭とした[1]。当時は浪曲席で、現在地よりもやや南寄りの区画に立地していた[注釈 3]

1921年大正10年)3月の新宿大火で類焼し、復興事業による区画整理で現在地[1][注釈 4]に移転した。そのころ経営の主体も末広亭清風の息子の秦弥之助に移る[注釈 5]1932年昭和7年)に日本芸術協会の発足に伴い落語定席になる[1]1945年(昭和20年)第二次世界大戦により焼失したが再建を果たせず、戦前に下谷の竹町[注釈 6]で寄席・六三亭を経営した経験があった北村銀太郎[注釈 7]が当時の落語界の重鎮であった五代目柳亭左楽のすすめで1946年(昭和21年)3月[1]に再建し、初代席亭と呼ばれる。

1951年(昭和26年)3月に株式会社新宿末廣亭設立[1]1955年(昭和30年)に二階席を増設した。当時の落語ブームに乗って1961年(昭和36年)に「お笑い演芸館」でテレビ中継進出も果たし、以降「日曜演芸会」、「末廣演芸会」と番組内容とタイトルを変更しつつ1981年(昭和56年)まで続く長寿シリーズになった。

戦後から続いていた落語ブームが下火になって以降も、若手二つ目の勉強の場として深夜寄席を継続開催しており、落語人気が安定した現在では人気を博している。2003年平成15年)9月には改装工事を実施[1]して椅子席を150席から117席にしてスペースをゆったりさせた。トイレも近代的になり、快適に鑑賞できる環境が整備された。

2011年(平成23年)10月、新宿区の地域文化財第一号に指定[2][3]

2020年(令和2年)、新型コロナウイルス感染予防に関する政府の緊急事態宣言とそれに伴う東京都からの営業自粛要請を受け、3月28・29日、4月4日-5月31日は休席(休業)となった。

6月1日から感染防止の対策を講じ、興行によっては昼夜入替制をとり、定員を限定した上で興行を再開。9月19日からは、定員を100%とする代わりに、場内での飲食を禁止した形で興行を続けた。

2021年(令和3年)1月7日に一都三県へ発令された緊急事態宣言を受け、翌日からは客席数を50%に再度制限の上、第三部の出演者の一人当たりの出演時間を短縮することで第三部の終演時間を21:00から20:00に繰り上げて公演を継続した。

正月二之席千秋楽となる予定だった1月20日、落語協会の演者2名(五代目鈴々舎馬風桃月庵白酒)と前座3名がPCR検査で新型コロナウイルスの陽性反応が確認される。急きょこの日の興行を休席(休業)[4]として全館消毒を実施した。

翌21日からの落語芸術協会担当の一月下席(昼の部主任:三代目三遊亭遊三、夜の部主任:瀧川鯉八)は、感染予防対策の上開催された[5]。24日からは、高座前に飛沫防止のためのアクリル板を置いた[6]

2021年4月上席からは、上演時間を昼の部 12:00?16:15、夜の部 16:30 - 20:30に短縮・繰り上げての興行になっている。

4月25日からの3回目の緊急事態宣言に対し、末廣亭を含む都内寄席は客席の定員制限や換気、手指消毒などの感染防止策をこれまで通り続けた上で営業することを決めていたが[7]、28日、一転して5月1日から11日までの休業を決定した[8]

10月26日、高座上のアクリル板が撤去された[9]

2022年2月の落語芸術協会中席(11 -20日)夜の部では、「笑点」の新メンバーに起用された桂宮治が真打昇進披露興行以降で初めて主任を務め、柳亭小痴楽六代目神田伯山らの「成金」メンバーが総出演する番組が編成されたことから、当興行から「混雑が予想される興行」については、整理券配布による観客の密集を回避するため、イープラスによる前売券の委託販売を開始した。ただし、宮治が直前で新型コロナウイルスの「みなし感染者」となったため一部日程で休演し、初日から六日目までは伯山、小痴楽、鯉八、桂伸衛門がそれぞれ日替わりで主任(「代バネ」)を務め、宮治は七日目から主任を務めた[10][11]

2022年5月、四代目席亭の真山由光が「新型コロナウイルスの影響で2年間売り上げが回復せず、毎月多額の赤字が続いており、積立金を切り崩すなど続けてきたが底を突き、このまま状況が変わらなければ店を畳まなければならない(閉鎖しなければならない)」「前年に行われたクラウドファンディングで受け取った2千万円も一時の運営のつなぎにしかならず、このままでは夏までには経営破綻してしまう」とコロナ禍における経営危機の苦境を訴え、独自にクラウドファンディングを実施[12][13][14]。8月末までの期間に、目標とした5千万円には届かなかったが、2470万円の支援が集まった[15]

2022年8月21日の昼夜公演は、東京の寄席定席の通常公演としては初めて[注釈 8]、PIA LIVE STREAMを用いての有料ディレイ配信(23日から配信)が行われた。主任は昼が三遊亭歌る多、夜が林家正雀[13]
席亭
初代

北村銀太郎1946年(昭和21年) - 1983年(昭和58年))

二代目

杉田恭子
:(1983年(昭和58年) - 1999年(平成11年))
1919年(大正8年)生まれ。北村銀太郎の娘で、再建当時からテケツ(切符売場係)を務めていた。寄席の客離れが進むなかでの女席亭としての奮闘ぶりが1998年(平成10年)1月21日放送のテレビ東京のドキュメンタリー番組「新宿末広亭に生きて・女席亭の50年」、同年12月6日放送のNHK「首都圏'98 不況にふんばる女席亭 -新宿 寄席の師走-」などで取り上げられたことがある。1995年(平成7年)日本芸能実演家団体協議会(芸団協)芸能功労者表彰。1999年(平成11年)3月30日、80歳没。落語協会の発表によると、遺言は「葬式は簡素に。お店は休まないでください……商売が大事、お客様が大切」であったという。
三代目

北村幾夫:(1999年(平成11年) -
2011年(平成23年))
銀太郎の孫(長男の息子)に当たる。日本大学で心理学を専攻後、デパートの配送を請け負う運転手を経て、28歳で末廣亭の仕事に就く[16]。北村は過去のネタ帳をすべて保存しており、2008年2月14日ジュンク堂書店池袋本店でのトークショーで観客に披露した。また、読売新聞記者の長井好弘が近著にて紹介した(後述)。支配人を退いた後は会長となる。
四代目


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