新宿二丁目
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東京都新宿区新宿二丁目仲通り(昼)夜の街並み

新宿二丁目(しんじゅくにちょうめ)は、東京都新宿区新宿にある丁目である。マンション雑居ビルオフィスビルなどが立ち並ぶ側面と、世界屈指のゲイ・タウンLGBTタウンとしての側面の両方がある。北側に靖国通り、西側に新宿三丁目駅の東端、南側に新宿御苑、東側に新宿御苑前駅の西端があり、それらに挟まれたほぼ四角い地域で、丁内の中央を花園通りが東西に、仲通りが南北に通り、東側北には成覚寺、同南に太宗寺がある。
概観

面積105,238.5 m2。2015年(平成27年)1月1日現在の住民基本台帳人口は1213人(男691、女522)、890世帯となっている[1]。戸建住宅はごくわずかに残るのみとなっているものの、マンションが多く一定の住民がいる。建設後年数が経過した雑居ビルが多く立ち並ぶ界隈となっているが、低層階が店舗やオフィス・上層階が住居という形式のマンションの建設やオフィスビルの新築・建て替えも進んでおり、人口は単身者を中心に微増傾向にある。

ゲイ・タウンとしての通称は二丁目、ニチョなど。新宿区の行政区域では四谷特別出張所所管区域の西地域(新宿一丁目・二丁目・四丁目・五丁目)である。現在の新宿二丁目の区域は1973年昭和48年)1月1日及び1979年昭和53年)1月1日住居表示施行により成立したものであり、それ以前は現在の新宿三丁目の東端の一部や新宿五丁目の南側の一部を含み、現・新宿二丁目の東側の一部を含まない区域であった。以下の記述ではこれを「旧新宿二丁目」とする。
地理

北は靖国通り、南は新宿御苑に挟まれた町である。靖国通り沿いと新宿通り沿いはオフィスビルや店舗・マンションなどが立ち並ぶ一般的な街であるが、靖国通りと新宿通りを結ぶ新宿二丁目仲通り(かつては六間通り・広小路とも称した)や、御苑大通り(旧称「栄通り」)から太宗寺方面に伸び仲通りと直交する不動通り、さつき通り、花園通り(柳通りとも称する)周辺に同性愛者向けのバークラブなどが集中し、大阪堂山町名古屋池田公園周辺とともにゲイ・タウンとして知られている(後述)。

かつては戦後新宿二丁目において最も早く建てられたビルというホテル「ラシントンパレス」(羅府会館・羅府飯店)が新宿通り沿いにあった。最上階に回転展望レストランを備えるなど特徴ある外観の建物であり、新宿二丁目のランドマークとなっていた。ホテル廃業後は「スカイジム」が入居するなど引き続き新宿二丁目を象徴する建物となっていたが、2004年に土地が売却されビルの解体が決まり、2006年に取り壊された。

江戸時代宿場内藤新宿)が置かれたことを起源とし、史跡が存在する。宿場開設以来1958年売春防止法の完全施行まで一部の区域は色街として栄えた(後述)。現在の区画や道路は概ね戦後1950年(昭和25年)の区画整理により整備され、同年「栄通り」(現在の御苑大通り)が部分開通している。周辺の丁目と同様、南側から北側へ緩やかに低くなっている地形である。
歴史
江戸時代内藤新宿の復元模型。手前の道の分岐が新宿追分。写真奥が四谷大木戸。

江戸幕府開幕により、甲州街道江戸から甲府までの主要街道として整備されたが、甲州街道第一の宿場は高井戸宿であり、起点の日本橋から4里もあって遠いことから、その間旅人は難儀をしたという。そのうち、現在の新宿二丁目近辺に人家ができ、1625年寛永2年)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋ができ、信濃国高遠藩内藤家の屋敷跡であったことから、これを内藤新宿と呼ぶようになった。「宿」とはいっても、正規の「宿場」ではなく、甲州街道や成木街道(現・青梅街道)を利用する人馬が休憩所として利用していたので、そのように呼び習わすこととなったという。

現在の「新宿」という地名の元となった内藤新宿は、前述の内藤宿を含む辺り(現在の新宿一丁目、二丁目、三丁目界隈)に、浅草阿部川町の名主高松喜兵衛他5人が幕府に願い出て許可され誕生した。町丁は内藤新宿上町・中町(仲町)・下町に分かれており、現在の新宿二丁目や太宗寺門前近辺は中町(仲町)であった。内藤新宿は風紀上の理由により1718年享保3年)に一度取り潰しとなったが、55年後の1772年明和9年)に、五代目名主高松喜六の請願運動により再興した。

内藤新宿は江戸四宿の一つであり、木賃宿や平旅籠が軒を並べて賑わっていたが、飯盛旅籠(飯盛女と呼ばれる遊女を置く旅籠)も多く、明和9年の記録では、幕府は内藤新宿に150人の飯盛女を置くことと、旅籠屋52軒の営業の許可を出している。
明治以降

1869年明治2年)、内藤新宿の上町・仲町・下町をそれぞれ内藤新宿一丁目・二丁目・三丁目とし、また太宗寺周辺の四谷太宗寺門前(永住町)は内藤新宿北町となった。また甲州街道(新宿通り)に面していない北側は二丁目裏・北町裏(北裏町)と称された。町奉行支配地だった北町は明治維新後、郡政局管轄を経て明治5年ころには東京府所轄となり、武家屋敷のあった北裏町は維新後上地となり、勧業寮の囲い込み地となった[2]

1889年(明治22年)5月1日、町村制施行により、内藤新宿一丁目、内藤新宿二丁目、内藤新宿三丁目、内藤新宿北町、内藤新宿番衆町、内藤新宿北裏町、内藤新宿南町および内藤新宿添地町が合併し、南豊島郡内藤新宿町が発足。東京府南豊島郡内藤新宿町大字内藤新宿二丁目・及び大字内藤新宿二丁目字二丁目裏が後の旧新宿二丁目に当たる。1896年(明治29年)4月1日、南豊島郡東多摩郡が合併し豊多摩郡となった。1903年(明治36年)12月29日には東京市街鉄道(後の東京市電新宿線)が開通し、「新宿二丁目」電停が開業した。1920年(大正9年)、内藤新宿町は東京市四谷区に編入され、大字内藤新宿二丁目及び大字内藤新宿二丁目字二丁目裏は大字内藤新宿北町・大字内藤新宿北裏町と統合され、「内藤」の冠称を外し、東京市四谷区新宿二丁目となった。


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