新宿ジョイシネマ1・2
Shinjuku Joy Cinema
右端にわずかに「新宿ジョイシネマ1・2」の看板が見えるが、建物はほぼ切れている。正面奥はかつて存在した新宿コマ劇場。2009年の写真。
情報
正式名称新宿ジョイシネマ1・2
旧名称新宿地球座
新宿座
歌舞伎町松竹
完成1947年
開館1947年12月
開館公演『石の花』(ロシア映画)[1]
閉館2009年5月31日
最終公演『ラスト サムライ』(シネマ1)
『GOEMON』(シネマ2)
客席数シネマ1:400席
シネマ2:305席
設備ドルビーデジタル5.1ch
35mm映写機
用途映画上映
運営ヒューマックスシネマ
所在地〒160-0021
東京都新宿区歌舞伎町1丁目21番7号 ヒューマックスパビリオン新宿アネックス内
最寄駅西武新宿駅
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歌舞伎町シネマ
新宿ジョイシネマ3・4
新宿ジョイシネマ3・4が入居していたヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町
情報
正式名称新宿ジョイシネマ3・4
旧名称歌舞伎町シネマ1・2
完成1971年
開館1984年
閉館1997年11月28日
最終公演『コンタクト』(ロバート・ゼメキス監督)
客席数シネマ3:144席
シネマ4:132席[2]
設備ドルビーサラウンド
35mm映写機
用途映画上映
運営ヒューマックスシネマ
所在地〒160-0021
東京都新宿区歌舞伎町1丁目20番1号 ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町2階
最寄駅西武新宿駅
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新宿名画座
新宿シネパトス
新宿ジョイシネマ5→3
山田洋次監督作『母べえ』(2008年)上映時の宣伝掲示板(写真左)。「ジョイシネマ3」の文字がうっすらと見えているのが確認出来る。
情報
旧名称新宿名画座
新宿シネパトス
完成1956年
開館1956年3月
閉館2009年5月31日
最終公演『60歳のラブレター』
(深川栄洋監督)
収容人員296人
設備ドルビーデジタル5.1ch
35mm映写機
用途映画上映
運営ヒューマックスシネマ
所在地〒160-0021
東京都新宿区歌舞伎町1丁目27番5号 中台ビル1階
最寄駅西武新宿駅
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新宿ジョイシネマ(しんじゅくジョイシネマ)は、かつて東京都新宿区歌舞伎町に存在した映画館である[3][4][5][6]。1947年(昭和22年)12月、のちの「地球会館」の場所に開館した新宿地球座(しんじゅくちきゅうざ)が原点であり、追って開館した新宿名画座(しんじゅくめいがざ)、「地球会館」の新築・落成とともに新設された新宿座(しんじゅくざ)とともに、1995年(平成7年)に「新宿ジョイシネマ」と館名を統一した[3][4][5][7]。「新宿ジョイシネマ」は第一義的には1984年(昭和59年)に新宿座を改称した際の単一館名であったが、その後、ヒューマックスピクチャーズ(現在のヒューマックスシネマ)が歌舞伎町にもつ5スクリーン(のち3スクリーン)を指す総合的な館名となった[4][5]。
本項では「新宿地球座」開館から「新宿ジョイシネマ1・2・3」閉館まで(1947年12月 - 2009年5月31日)を扱う。
沿革
1947年12月 - 林以文が新宿・歌舞伎町に新宿地球座を開館[4][5]
1948年5月 - 林以文が惠通企業株式会社(現在の株式会社ヒューマックス)を設立[4]
1953年1月2日 - 新宿劇場開館(1970年閉館)[5]
1956年3月 - 新宿名画座(のちの新宿ジョイシネマ3)開館[5][8]
1958年6月 - 林以文が株式会社地球会館を設立[4]
同年12月 - 「地球会館」新築・落成、新宿座が開館、新宿地球座が再開館(のちの新宿ジョイシネマ1・2)[4]
1971年10月 - 閉館した新宿劇場跡地に「新宿ジョイパックビル」(現在の「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」)が落成[4]
1983年 - 新宿地球座が歌舞伎町松竹と改称
1984年 - 新宿座が新宿ジョイシネマと改称
1987年5月 - 新宿名画座が新宿シネパトスと改称[9]
1995年7月 - 新宿ジョイシネマ1・2・3・4・5へと館名を統一、「新宿ジョイパックビル」の歌舞伎町シネマ1・2(1985年開館)を3・4に改称[9]
1997年11月 - 新宿ジョイシネマ3・4を閉館、新宿ジョイシネマ5を3と改称
2009年5月31日 - 新宿ジョイシネマ1・2・3すべて閉館[5]
2011年1月 - 「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」(かつての地球会館)の大改修工事を完成[4]
データ
所在地
新宿座・新宿地球座:東京都新宿区歌舞伎町753番地 地球会館 地階・4階
ジョイシネマ1・2:東京都新宿区歌舞伎町1丁目21番7号 地球会館(現在の「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」)地階・4階(のち3階)[6]
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分43.46秒 東経139度42分3.81秒 / 北緯35.6954056度 東経139.7010583度 / 35.6954056; 139.7010583
第二次世界大戦後、かつて東京府立第五高等女学校(移転して現在の東京都立富士高等学校)のあった歌舞伎町の地区を開発することになり、林以文が1947年(昭和22年)12月、歌舞伎町753番地に新宿地球座を新築・開館した[4][7][11]。同地区の開発はなかなか進まず、地球座の開館は同地への進出第1号であり、周囲に施設が揃い始めるのは数年後のことであった[7][11]。林は翌1948年(昭和23年)5月、惠通企業株式会社を設立[4]、地球座では外国映画(洋画)を上映して『地球座ニュース』を発行し、地球座は軌道に乗った[11]。1951年(昭和26年)には、東京急行電鉄が東京スケートリンク、同年11月には東亜興行が新宿オデヲン座を開業し、さらに2年後の1953年(昭和28年)1月2日には、歌舞伎町879番地に林が新宿劇場を新築・開館したが、まだ新宿コマ劇場の位置は野原であった[4][7][12]。
1956年(昭和31年)3月、李合珠の経営する中台工業(現在のエイチアイインターナショナル
)が地球座の西側、歌舞伎町511番地に「中台工業ビル」を新築・開業、その際に惠通企業は同ビル1階に入居して映画館を開き、新宿名画座として開館した[5][7][8]。同館は、基本的に日本映画の旧作を上映する劇場であった[7]。1958年(昭和33年)6月、惠通企業は傘下に株式会社地球会館を設立、同年12月には、新宿地球座の位置に「地球会館」を新築・落成、地下に新宿座が開館、4階に新宿地球座が再開館した[4][7]。新宿座が日本映画、新宿地球座が外国映画というすみわけであった[3][7]。開館当時の地球会館は、2つの映画館のほか2階にコンサートホール、7階に「キャバレームーランルージュ」があり、総合娯楽ビルディングであった[7]。1959年(昭和34年)当時の惠通グループのこれら映画館の経営母体は、新宿座・新宿地球座が株式会社地球会館、新宿名画座が惠通企業、新宿劇場が林の個人経営であった[7]。1971年(昭和46年)には、新宿劇場を閉館した跡地に「新宿ジョイパックビル」(現在の「ヒューマックスパビリオン新宿歌舞伎町」)を建設、同年10月に落成、ボウリング場「新宿コパボウル」、ゲームセンター「プレイランドカーニバル」、ディスコ「プレイハウス」などがある総合レジャービルとなったが、当初、映画館は存在しなかった[4][11]。ジョイパックシネマ(現在のヒューマックスシネマ)が同ビル2階に歌舞伎町シネマ1・2を1984年(昭和59年)に新設[13]、これがのちに「新宿ジョイシネマ3・4」になった。同じころ、同年には新宿座が新宿ジョイシネマと改称、前年の1983年(昭和58年)には新宿地球座が歌舞伎町松竹と改称、1987年(昭和62年)には、新宿名画座が新宿シネパトスと改称し、ピンク映画[2]から一般映画の上映館へとリニューアルした。同年7月、恵通企業株式会社が株式会社ヒューマックスへと社名変更、グループ名をヒューマックスグループと改称した[4]。
テレビディレクターの岡田倫太郎は早稲田大学在学中の1991年(平成3年)頃に当館でアルバイトをしていたことがあり、当時上映していた『ダークマン』(サム・ライミ監督)や『ヒルコ 妖怪ハンター』などといった作品の宣伝を当館入口付近で行っていた[14]。