新宿ゴールデン街の路地は私道であるため、路上での写真や動画の無断撮影は原則禁止されています。本記事を編集される方は、無断で撮影した写真や動画を投稿しないよう留意してください。
新宿ゴールデン街
飲食店街
G2通りに設置されている新宿ゴールデン街の看板 (花園交番通りの公道上より撮影)2009年
国 日本
都道府県 東京都
市区町村 新宿区
面積
? 合計0.00661157 km2
等時帯UTC+9 (JST)
郵便番号160-0021
市外局番03
ナンバープレート練馬
新宿ゴールデン街(しんじゅくゴールデンがい)は、東京都新宿区歌舞伎町1丁目にある飲食店街。バラック長屋に、スナックなど300軒近い酒場が並び、作家や映画・演劇関係者が通うことで知られる[1]。
概要新装されたゴールデン街ゲート看板(花園交番通りの公道上より撮影)2022年3月新しい街灯も設置されたG1通り2022年夜のG2通り(花園交番通りの公道上より撮影)2009年
新宿ゴールデン街商店街振興組合と新宿三光商店街振興組合の二つの組合によって管理されている。およそ2000坪ほどの狭い区画に低層の木造長屋が連なっており、200軒以上の小さな飲食店が密集している。かつては文壇バーなど個性豊かな店も多く、常連客として作家・編集者、映画監督、俳優といった文化人が多く集まることで知られていた。このような背景から、東京におけるサブカルチャーやアングラ芸術の発信地の一つとなっている。
1980年代後半のバブル景気の最盛期には激しい地上げに見舞われたが、飲食店の店主ら有志が「新宿花園ゴールデン街を守ろう会」を結成し、団結して地上げや再開発への反対運動を展開した。1990年代に入るとバブル崩壊により地上げは終息したが、地上げに屈して閉店した空き店舗が多数放置され、一時は客足も滞ったことから、さながらゴーストタウンのようになった。そのため、飲食店により構成される組合が中心となり、街の活性化やインフラストラクチャーの整備などを推進してきた。2000年代に入ると新規出店が相次ぐようになり、客足も戻ったことから、再び活気を取り戻した。近年では、ヨーロッパなど海外からの観光客が多く訪れることでも知られている。
地理新宿ゴールデン街周辺の地図
花園神社の西向かいにあり[1]、第二次世界大戦後に建てられた木造長屋建ての店舗が、狭い路地を挟んでマッチ箱のように並んでいる。東を花園交番通り、西を四季の道、南を東京電力角筈変電所、北をテルマー湯に囲われた区画である。区画内の路地には、それぞれ「G1通り」「G2通り」「あかるい花園一番街」「あかるい花園三番街」「あかるい花園五番街」「あかるい花園八番街」「まねき通り」といった名称がつけられている[2][3]。「G」はGoldenのG。元々は、G1通りとG2通りのみが新宿ゴールデン街と呼ばれていたが、この名が全国的に有名となったことから、現在は区画一帯を総称して新宿ゴールデン街と呼んでいる。
あかるい花園一番街より北側の店舗は新宿三光商店街振興組合を組織しており、南側の店舗は新宿ゴールデン街商店街振興組合を組織している。新宿ゴールデン街商店街振興組合と新宿三光商店街振興組合のエリア内の路地は全て私道であるため、路上での無断撮影は禁じられており、撮影時は事前申請のうえ腕章着用など所定の手続きが必要となる[4][5]。近年では、私有地であるはずの路上にて、無許可で写真や動画の撮影を行う者がおり、問題となっている。ただし、新宿ゴールデン街商店街振興組合と新宿三光商店街振興組合に加盟する店舗の者に頼んで、スナップ写真や記念写真などを直接撮影してもらう場合は、申請が不要とされている[5]。ただ、その場合も、当該写真を商用利用する場合は、申請が必要となる[5]。なお、路上ではなく店舗内での撮影については、店舗側の許諾を得れば問題ないとされている[5]。
なお、新宿ゴールデン街の区画全体が、花園神社の氏子地域となっている。そのため、花園神社の神札や熊手を祀る店舗が多い。 新宿ゴールデン街の起源は、太平洋戦争終結後の混乱期にできた闇市を端緒とする[6][7]。当時の東京都淀橋区・四谷区(いずれも現在の新宿区)周辺では闇市が軒を連ねており、新宿駅の東側には関東尾津組による「新宿マーケット」が広がっていた[6][7]。その後、新宿マーケットは屋台を中心とした飲み屋街に変貌し、「竜宮マート」と呼ばれるようになった[6][7]。しかし、1949年に連合国軍総司令部が闇市撤廃を指示するに至り[6]、東京都庁と警視庁は各店舗に対して翌年までの移転を命じた[7]。それにともない、闇市の各店舗は、代替地として新宿区三光町(現在の歌舞伎町1丁目と新宿5丁目の一部)の一帯に移転することになった[6][7]。この一帯が、のちに新宿ゴールデン街と呼ばれるようになる。 当時の三光町は繁華街から離れた場所であり、当時「よろめき横丁」と言われた一帯のほとんどの店が飲食店の名目で赤線まがいの営業をしていた。風俗営業法の許可を取らないもぐり営業のため、俗称で青線と呼ばれた。
沿革
前史
青線地帯