新宿コマ劇場
Shinjuku Koma Theater
閉館後の新宿コマ劇場。その左隣に新宿プラザ劇場があった。
情報
通称コマ劇
正式名称新宿コマ劇場
完成1956年
開館1956年12月28日
開館公演オクラホマ! (映画)
閉館2008年12月31日
最終公演第41回年忘れにっぽんの歌
客席数2,750席(開館時)[1]⇒2,088席(閉館時)
設備フードカウンター、カフェ、レストラン
用途演劇、コンサート、ミュージカルなど
運営株式会社コマ・スタジアム
所在地〒160-0021
東京都新宿区歌舞伎町1丁目19番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分42.94秒 東経139度42分7.16秒 / 北緯35.6952611度 東経139.7019889度 / 35.6952611; 139.7019889 (新宿コマ劇場)
新宿コマ劇場(しんじゅくコマげきじょう)とは、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にあり、1956年12月28日から2008年12月31日まで株式会社コマ・スタジアムが運営していた劇場である。「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演された。コマ劇や新コマとも言う。
映画館の「新宿コマ東宝」と劇場の「シアターアプル」(映画館としても使用される)を併設していた。
定紋は独楽(コマ)。閉館時の物は3代目で、運営会社であるコマ・スタジアムの社章を兼ねていた。1960年(昭和35年)2月、歌舞伎町の写真。左が新宿劇場(第二次)、右が新宿コマ劇場。 当劇場があった場所は元々、1950年に開催された『東京産業文化博覧会』のアトラクションの一つであった「児童館」「野外劇場」の一部だった[1]。博覧会閉会後は東宝が跡地を購入するも、当時の東宝は自社の劇場建設に消極的だったという[1]。その後、関連子会社として1956年2月にコマ・スタジアムが設立。大阪の梅田にあった梅田コマ・スタジアムの姉妹劇場として建設され、同年12月28日に開場した。開場当初は「新宿コマ・スタジアム」と呼称していた。 阪急・東宝グループの創始者である小林一三が抱いた「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」という理念に基づいて創設し歌舞伎町の地名のもととなった。客席数2,088席は首都圏で最大級であった。 開館日のプログラムは、Todd-AOシステム 「演歌の殿堂」としても知られ、歌謡界の女王・美空ひばりを筆頭に北島三郎・小林幸子・氷川きよしらが特別公演を多く開催した。演歌以外のアーティストでは、1975年 - 1980年の毎年8月下旬に山口百恵が「百恵ちゃんまつり」と題した2部構成の公演を行い、1975年は彼女にとっての初ワンマンイベントでもあった。YMOは「ウィンター・ライヴ1981」で12月22日から24日まで3公演を新宿コマ劇場で行った。サザンオールスターズは1984年から1985年にかけてカウントダウンライブ『縁起者で行こう』を開催。「日本初の年越しライブ」「年越しライブの元祖」とも呼ばれており[注 1]、現在まで続くサザンのカウントダウンライブのはしりとなった[4][5]。浅香唯は1988年7月22日にコンサートを行った。演歌歌手を志していた水樹奈々は閉館直前の2008年10月11日に公演を行った。1958年に第9回NHK紅白歌合戦が開催されたが、円形のステージや観客からの凄まじい声援とテレビの音響技術の未成熟さから、演奏が聞き取れずに歌がずれてしまうなど「コマ劇場の使いにくさ」が歌手や関係者から指摘され、以後は使用されなかった。 平成以降、毎年大晦日にテレビ東京系列とBSジャパン(現:BSテレビ東京)で『年忘れにっぽんの歌』を生中継していた。かつては、6月中旬に行われていた「ドリームジャンボ宝くじ」の抽せん会の会場としても知られていた[注 2]。 ギリシャ時代の劇場様式からヒントを得た廻り舞台が特徴で、同心円状に配された三重の廻り舞台(盆廻しとも呼ぶ)と6つの小迫が回転と上下運動する舞台が多様な効果を魅せていた。劇場名の「コマ」は、円形舞台が独楽の回る様に似ていることから採られた。 新宿コマ劇場は1970年代に全盛期を築き、ピーク時には年間100万人を超える動員力を誇った。だが1990年代には演歌の人気低迷が深刻化し、運営会社の株式会社コマ・スタジアムは、同社の中心的な事業である演劇事業の収益が低迷するようになっていた。同社は2003年11月に経営再建計画を発表し、基幹劇場を新宿コマ劇場1館に集約すること、従業員を3分の1程度にまで減らすことなどにより利益を出せる体制に移行することを試みた。だがその後も従来型の演歌公演のほうは観客動員数が減少し、さらに新たに企画した公演のほうも期待したような成績が出せず、2期連続で損失を計上することになった。また新宿コマ劇場は築後半世紀が過ぎており老朽化が進んでいた。 2005年5月に新宿コマ劇場の運営主体であるコマ・スタジアムとアミューズ、阪急電鉄は業務提携を行い、アミューズがコマ・スタジアムの第三者割当増資を引き受けることで阪急電鉄、東宝に次ぐ第3位の株主となった[6]。閉館を告げる案内板 2008年5月28日に、コマ・スタジアムは東宝と新宿区歌舞伎町再開発事業について合意し、「築51年が経ち、建物自体の老朽化が進行し、また入場客数の減少に歯止めがかからず業績が低迷している」として同年大晦日の『年忘れにっぽんの歌』の生放送を以て新宿コマ劇場を閉館することを発表した。 2008年5月の段階では、閉館後は東宝の支援を受けて同時に閉館予定の隣接する新宿東宝会館(映画館の「新宿プラザ劇場」が入居している)を合わせた約5385平方メートルの敷地の総合的な再開発が展開される予定、と報道された[7]。立地は東宝が所有しコマ・スタジアムは建物と借地権を有していることから、2008年12月に東宝が株式会社コマ・スタジアムを完全子会社化して跡地の再開発に備えた。
歴史・概要
創設
特徴
構造の特徴上・チケット売り場、下・正面出入口
業績悪化と閉館