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新宮党(しんぐうとう)は、出雲の戦国大名尼子氏家中の精鋭として知られた軍事集団。居館を月山富田城(島根県安来市広瀬町)の北麓、新宮谷に構えていたため、新宮党を称した。
しかし重要な戦で先鋒を務めるが、かなりの戦で敗退している。 新宮党という名称で呼ばれるようになったのは次代の尼子国久の頃とされるが、それ以前より尼子氏一門による親衛隊的な役割を持つ精鋭集団が組織されていた。この集団は尼子氏の勢力伸長に貢献し、出雲国内から安芸国・備後国等を転戦した。天文10年(1540年)の吉田郡山城の戦いにおいて、この組織の実質上の指導者であった尼子久幸は討死する。 新宮党は尼子経久の次男尼子国久が継承し、引き続き尼子一門の藩屏として活躍する。この頃の新宮党は、国久の養子先である吉田氏が所有する出雲国東部地域、そして謀反を企てて追討された国久の末弟・塩冶興久の遺領である出雲国西部地域の塩冶も引き継いで支配しており、出雲国内の勢力は非常に大きいものがあった。宗家とは別の独立した権限も所有しており、経久死後は当主尼子晴久の裁判権等に度々介入を行っている。 新宮党が尼子軍の精鋭部隊であり、その勇猛さで勢力拡大に貢献したことから、国久と息子の誠久は尼子家中で傲慢に振る舞い、尼子氏当主の尼子晴久や他の重臣たちとの間に確執・軋轢が生じていた。 例として いずれも事実であるか疑わしい逸話であるが、新宮党と他の重臣との間に確執が生じていた事、あるいは晴久と新宮党がそれぞれ異なる命令を出したために家臣がどちらに従うべきか困惑した事をうかがわせる。 また、尼子宗家が直接介入し、その経済力・軍事力を直轄化しようとした杵築大社が起こした諸問題では、新宮党を率いる国久に頼る必要があった。国久の発給文書には杵築大社・杵築大社支配下勢力と尼子晴久を結んだ文書が多く、西出雲における尼子氏の支配は国久を通した間接的なものであった。 国久の娘は晴久の正室であったが、その娘が死去した直後の天文23年11月1日(1554年11月25日)、晴久は家中の統一を図るため突如として国久、誠久親子ら新宮党幹部を粛清した。国久は登城途中で暗殺され、誠久は新宮党館内にて自害した。その一族も自害もしくは逃亡して、新宮党は壊滅した。粛清後、晴久は尼子氏久に新宮党を率いさせた。 杵築大社・杵築大社支配下勢力との折衝役であった新宮党とその一族が粛清されたことにより、晴久は杵築大社以下の西出雲にも本格的介入が可能となり、目論みであった出雲一国の直接統治はほぼ完遂された。また混乱による軍事的な弱体化を小規模に抑えたことで、その後も晴久存命時には毛利元就を忍原崩れで破り一時は安芸に侵入するなど、激しくなる毛利氏の攻撃をよく防いだ。
概要
尼子久幸時代の新宮党
尼子国久時代の新宮党と増長
尼子誠久は自分の前を通り過ぎる者に対して下馬を命じた事があり、それに反発した熊谷新右衛門
あるいは中井平蔵兵衛尉という、髭が立派な事を自慢にしている武将がいたが、尼子誠久にその髭をなじられた。翌日、尼子晴久の前に出仕した中井は、髭を片方だけ剃っており、晴久がそのふざけた態度に怒ると、中井は誠久に髭の事で叱られたので剃り落す事にしたが、晴久も知っている立派な髭をすべて剃るのは晴久に対して無礼になるとして、片方だけ剃ったと述べた。
粛清とその後