『新史 太閤記』(しんし たいこうき)は、司馬遼太郎の歴史小説。尾張国の貧農から身を起こして天下人となり、「戦国一の出世頭」と呼ばれた豊臣秀吉の壮年期を扱った作品である。
『小説新潮』誌上で、1966年(昭和41年)2月号から1968年(昭和43年)3月号まで連載された。 『国盗り物語』・『関ヶ原』と連なる司馬の「戦国三部作」の一作である。 秀吉の少年時代から、流浪の生活を経た末に織田信長に仕えて出世を重ね、本能寺の変後に自ら天下取りに乗り出す様が躍動感溢れる筆致で描かれる。既存の様々な『太閤記』を踏襲しており、殊に秀吉の人間的魅力を評して「人蕩し」(ひとたらし)と呼ぶ箇所が頻出する点は、山路愛山の『豊太閤』(現行では『豊臣秀吉』岩波文庫全2巻)の影響を強く受けている。小牧・長久手の戦い後の徳川家康との講和で筆を置き、秀吉の晩年には触れられない。晩年と没する前後は、『関ヶ原』で読むことができる。 1973年のNHK大河ドラマ『国盗り物語』では、原作の一部となった。 その男は尾張国の貧農の泥のような家に生まれた。矮小短躯に醜怪な面貌をのせた風体から「猿」などというみじめな名で呼ばれ、常に周囲からいじめ抜かれて育った。長じた後も身の丈は五尺にすら届かず膂力にも恵まれなかったが、しかしこの猿男には泉のように湧き出る智恵と誰にも負けぬ抜群の機転があった。力も門地も何も持たぬ自分だが、智恵さえ活かせばこの野猿のような男でも世に立つ瀬があるのではないか。そう考えた猿は、才覚を元手に銭をいくらでも増やしてゆく商人に憧れ、故郷を飛び出して人生を切り開くことを決意する。 やがて商人よりも武士のほうがはるかに才覚がものをいう渡世であることを知るに及んで、猿は武士になることを望むようになる。諸国を流浪した末に織田家の上総介信長の噂を耳にした猿は、この尾張の若き大名に仕えることにする。信長は奇行が多く悪名高い「うつけ殿」であったが、先年家督を継ぐや意外な力量を見せ、衆目を集め始めていた。珍妙な面構えを気に入られた猿は小者として信長に仕えることとなり、ここぞとばかりに働いて寵を得る。猿にとって何より魅力的だったのは、信長が貴賎などに頓着せず、働き様によって誰でも士分に取り立ててくれることだった。機転の利きようを買われた猿は「木下藤吉郎」と人がましい名を得て戦にも出、信長の期待に十分以上に応えた。小兵であるから豪傑のような活躍はできないものの、部隊の指揮が巧妙で戦場での駆け引きに長け、唐突な変事にも機敏に対処する。何より部下の扱いが上手く、巧みにその心をつかんで離さず死地にすら喜んで赴かせるような人格的魅力は、「人蕩し」とでもいうべき異能の才であった。藤吉郎は外交でもその「人蕩し」の才を発揮し、戦の前に敵方の国衆を次々と籠絡して戦端を開く以前に帰趨を決めてしまうといった勢いであった。醜いとはいえ愛嬌のある面相で相手の心をつかみ、己の猿面すら武器にして自身の懐に引きずり込む異能は、さながら傀儡師か万歳楽か、はたまた狂言師のようであった。いやさ、この世は一場の狂言のようなものではないかと藤吉郎は思う。刀槍場裡で目立つような働きはできずとも、この智恵と珍奇な面相を使って狂言師にでもなったつもりで世を渡っていけば、あるいは大身を成すこともできるやもしれぬ。 桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、美濃をも併呑して一躍名を上げた信長は、京へ上洛して宿願であった天下取りへと足を踏み出し、近畿をほぼ制圧することに成功する。信長にその才覚を高く評価された藤吉郎は、抜擢に抜擢を重ねて異例の出世を果たし、名を「羽柴筑前守秀吉」と改めて北近江においてついに大名に任ぜられる。さらには中国平定の要である毛利氏の攻略をも命ぜられることになり、藤吉郎改め秀吉は織田家第一の将としての地位を確立した。ところが中国攻めを敢行する中、信長が重臣・明智光秀の謀反に遭い非業に斃れたという驚天動地の報せがもたらされる。秀吉は突然の変報に衝撃を受けるものの、気を取り直すや直ちに毛利氏と講和を結び、昼夜を問わぬ大強行軍で中国から取って返し、山崎の戦いで光秀を討ち取ることに成功する。見事に信長の復仇を成し遂げた秀吉はその功をもって信長の後継を決める清州会議に臨み、筆頭家老・柴田勝家の推す三男の信孝を退け、嫡孫である三法師を跡目につけた。秀吉の魂胆はまだ幼い三法師を後継者に据え、自身はその後見につくことで織田家の家政を牛耳ることにあった。いや、秀吉は織田家からの天下の簒奪を考えていた。諸将を巧みに懐柔して己の幕下に取り込むと、秀吉は孤立させた勝家を賤ヶ岳の戦いにおいて討ち破り、旧信長領の大部分を掌握した。もとより秀吉の泉のごとく湧き出る智恵は詐略・陰謀といった悪謀を考えることに巧みであり、これまでそうした悪才を天性の明るさと信義の厚さという徳で包み込んでものの見事に美質に転換させてきたが、この時もことさら陽気に振る舞うことで天下の簒奪という大悪事を悪事と思わせずに世情の祝福を勝ち取ろうとした。さながら祭礼の音頭を執るかのようなその賑々しさに惹かれ、我が身の帰趨に迷っていた諸将も続々と秀吉の下に参集したのだった。 勝家の死は、秀吉にとってそのまま織田家の消滅を意味した。形の上で三法師を頂いていようとも、信長の実質的な後継者は秀吉であることはすでに誰もが否定し得ないことであった。それまで自身の行動を束縛してきた織田家という縛りが無くなり、誰憚ることなく存分に持ち前の能力を発揮できるようになった秀吉は、いよいよ天下取りの道へと走り出すこととなる。行く手に立ちふさがる者も得意の調略術で次々と籠絡し、昨日の敵も今日には部下にしてしまう手腕は、さながら満天下に魔術を披露するかのようであった。もはや秀吉による天下統一を阻む者はいないかに見えたが、東海にただ一人徳川家康という存在がいた。信長の長年の同盟者であり信義を違えぬ律義者として知られた家康であったが、本能寺の変の後に俄に天下への野心を顕し、甲州・信州の信長の遺領を手中にして、東海地方をほぼ支配下に収めた。東海に家康という巨魁が控えている以上、東国は無論のこと西国の平定に出ることもできない。自らの外交的優位性を知悉する家康は恫喝しようが甘言を弄しようが微塵も動じず、秀吉を大いに当惑させた。やがて秀吉は小牧・長久手の戦いにおいて干戈を交えることになるものの手痛い敗北を喫し、局地戦とはいえ秀吉相手に快勝を上げた家康は、東海に巨大な独立圏を創りあげる。秀吉は家康という存在に苦しみながらも、しかし新たに築いた大坂城を拠点に外交調略によってじわじわとその勢力を拡大してゆき、ついに朝廷から「豊臣」の氏を下賜されて関白に任ぜられる。人臣最高位にまで上り詰めた秀吉の威望は天下を覆うこととなり、その政権基盤は確固としたものとして確立した。ことここに至れば抵抗も詮無しと見た家康は、秀吉の意向に応じて大坂へ上ることを決める。
概要
あらすじ