新古今和歌集
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『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は、後鳥羽院の勅命で編纂された勅撰和歌集鎌倉時代初期成立。全二十巻。いわゆる八代集の最後を飾る。略称は『新古今集』(しんこきんしゅう)。撰歌にあたり、幽玄・有心の美学が反映されている(新古今調)。
成立

平安時代末期、宮中歌壇では和歌を業とする家として六条家御子左家が対立していたが、安元3年(1177年)に六条家の代表というべき藤原清輔が死去すると、御子左家の当主たる藤原俊成歌人として重んじられるようになり、第七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』を撰進するにいたった。さらに後鳥羽天皇が即位すると、俊成は宮中の主要な和歌の行事に息子の藤原定家を参加させるなど、御子左家の勢力拡大に努めた。『新古今和歌集』の編纂が始まったのは、和歌に格別の関心を寄せる後鳥羽天皇が譲位し、宮中歌壇における御子左家の地位がおおむね固まった時期であった。

『新古今和歌集』は、後鳥羽院の勅命によって編纂された勅撰和歌集である。勅撰集を編纂するための部局「和歌所」が後鳥羽院の御所に置かれ、後鳥羽院自身も歌を親撰するなど深く関わった。院歌壇の歌人のほとんどが編纂に関わり、何十年にもわたって改訂が続いたという八代集の中でも稀有な存在である。

編纂の方針は「先ず万葉集の中を抽き、更に七代集の外を拾ふ」(真名序)、すなわち『万葉集』とそれまでの勅撰和歌集に採られなかった和歌より撰ぶとした。撰者は『古今和歌集』や『後撰和歌集』にならい複数人とし、 源通具六条有家藤原定家藤原家隆飛鳥井雅経寂蓮の6人が後鳥羽院の院宣により定められた。ただし寂蓮は撰集のための和歌を集めている時点で没しており、実際の撰集作業は寂蓮以外の5人の撰者で行われた。

建仁元年(1201年)7月、和歌所を設置、その際11名の寄人源家長開闔に任命される。同年11月には寄人の中から上記の通具以下6名を撰者とする旨の院宣が下り、建仁3年の4月ごろまでに撰者たちが撰集の材料とすべき和歌を上進している。それらの和歌に後鳥羽院が目を通して撰び、それを清書して集に採るべきものとした。元久元年(1204年)にはいよいよ歌集としての体裁を整える編集作業に移り、翌年3月26日に完成としてそれを記念する宴である竟宴が後鳥羽院の御所で催された。しかし、このとき仮名序はまだ用意できておらず、定家は勅撰和歌集の完成を理由に竟宴を催すのは例のないことと批判している。その後も建保4年(1216年)12月まで「切り継ぎ」(改訂)の作業が続いた。『新古今和歌集』の成立過程の時期をまとめるとおよそ以下のようになる。
建仁元年(1201年)の下命時から、撰者たちが歌を集めてくるまでの時期。代々の勅撰集に漏れた秀歌や、『六百番歌合』(九条良経主催)と『千五百番歌合』(後鳥羽院主催)が撰歌の母胎となった。

上皇自らにより歌の吟味、選別をした時期。

歌の部類、配列をした時期。撰者以外の寄人も作業に加わる。元久元年までにいったん完成し、奏覧された。

歌の修正、切り継ぎをした時期。承元4年(1210年)から建保4年の間に最終的に完成した。

しかし、後鳥羽院は承久の乱(1221年)により隠岐に流され、19年の月日を過ごしたが、その晩年に『新古今和歌集』から400首ほどを除き彫琢を加え、これこそが正統な『新古今和歌集』であると主張した(「隠岐本識語」)。これを「隠岐本」と呼ぶ。この「隠岐本」を後鳥羽院は藤原家隆に送っている。


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