新印象主義
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ジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(1884-86)

新印象派(しんいんしょうは、neo-impressionism)とは、ジョルジュ・スーラが確立した芸術様式をさして、1886年に批評家のフェリックス・フェネオン(英語版)がつけた用語であり[1]、直観的だった印象派の色彩理論を科学的に推進し点描画法による鮮明な色彩表現や、印象派が失ったフォルム、画面の造形的秩序の回復を目指した1880年代から20世紀初頭にかけての絵画の一傾向のことである[2]。新印象主義とも呼ばれる。

新印象主義はフォーヴィズムをはじめとする20世紀初頭の前衛絵画運動にも影響を与えた[3]
概要
背景

1880年代初頭、印象派の画家たちは岐路に立たされていた。そもそも、1874年から行われていた印象派展も一枚岩だったわけではない。特に、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールを中心とするグループとエドガー・ドガ率いるグループの間で対立が目立つようになる[4]。理由としては主に次のようなことをあげることができる。

ドガがジャン=フランソワ・ラファエリなどの自然主義系の画家を印象派展に参加させた[4]。これに対しモネはラファエリの出展に強く反対した。

印象派展はサロンと同じ時期に開催され「会員はサロンに出展しない」という取り決めがあったが、1880年ごろモネやルノワールがサロンにも出展し始めたことが一途な性格であるドガの癪に障った[5]

1880年ごろ印象派の画家たちは40歳前後になりグループとしての活動よりは自己の芸術の追究に重きを置くようになった[5]

このようにして徐々に発生した印象派のグループとしての解体を象徴するのが、1886年に開かれた最後の印象派展となる第八回展である。カミーユ・ピサロやドガの作品はあったが、モネやルノワールの出展はなく、そればかりか印象派に批判的なオディロン・ルドンポール・ゴーガンの作品が出展される印象派展となった。この印象派の終焉を思わせる印象派展に、のちに新印象派と呼ばれるスーラやポール・シニャックも参加していたのである[4]
「新印象主義」誕生

スーラは国立美術学校時代、ドミニク・アングルの弟子でアングル派の重鎮となっていたアンリ・レーマンのもとで古典的でアカデミックな美術教育を受けていた[6]。その一方で、ウジェーヌ・ドラクロワバルビゾン派や印象派などの絵画に衝撃を受け、光や色彩に関する関心を深めていく[7][8]。スーラは、印象派の経験的で直観にたよった色彩表現や筆触を、より科学的で正確な色と色彩の表現にすることを追究した[9]。そこで彼が参考にしたのは、当時出版されていた光や色に関する科学書や美術理論書である。主に、ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール『色彩の同時対照の法則』(1839年)、シャルル・ブラン『デッサン芸術の文法』(1867年)、オグデン・ルード(英語版)『近代色彩論』(1879年)などである[7]

スーラの探求が結実するのは、第八回印象派展に出展された『グランド・ジャット島の日曜日の午後』である。
分割主義、点描主義、色彩光線主義

スーラが印象派の経験的で直観にたよった色彩表現を論理的で科学に基づいた表現にするために確立した方式は、原理上の観点から「分割主義」、技法的観点から「点描主義」と呼ばれ、スーラ自身は「色彩光線主義」という言葉を好んだ[7]。印象派は刻一刻と変化する光を表現するために、筆触分割と呼ばれる、混色を使わずいくつかの原色に近い色を細かく配置することで周囲の光や空気の微細な変化を画面にもたらすことに成功していた[10]。しかし、筆触は依然大きく不揃いで、まだ乾かない状態で絵の具を塗り重ねていったため、絵の具(固体顔料)が混ざり合い暗くなってしまうという欠点があった[7][11]。ルードはヘルマン・フォン・ヘルムホルツの研究を紹介し、特筆すべき事として固体顔料は光線のような明度の高い色彩を表現できないことをあげている[11]。スーラはこのような当時の科学的考えを採用して、筆触分割を科学的に徹底させた。具体的には、キャンパスに純色のみの小さな筆触を並べ(点描主義)、色を分割し(分割主義)、その配置を法則化した[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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